小長井城

こながいじょう

《別名》 小長谷城、徳谷城




南北朝時代以降に小長谷(こながや)氏が居城としていたとされるが、詳細はわからない。 武田氏の駿河侵攻により武田氏の配下になったと思われる。
その後、武田氏により拡張工事が行われたが、天正8年(1580)に 武田勝頼から穴山信君(梅雪)宛の書状があり、田中小山、天王山(小長井)城の防衛強化を 伝えているため、その頃に拡張工事が行われたと考えられている。
<場所>榛原郡川根本町東藤川
<行き方>国道362号と県道77号の交差点から国道を山側に
200m登って右折 約200m先徳谷神社内
<駐車場>神社境内に3台
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9、『本川根町史』通史編1

【上】大井川より城域方面  川に面した西側は断崖となっており城域の南北側面は 谷となっている。

『小長井城要図』



【左上】主郭  現在徳谷神社の境内となっている。背後に土塁、空堀の遺構がある。
【中上】主郭より西側  神社の入口が西側の大井川に面した道にある。階段の両側には 二の郭、三の郭がひな壇状にある。鳥居の所には桝形を造っていたと思われる土塁が 残る。
【右上】西側の堀  鳥居を出た所には道と平行して空堀が一部残っている。また道の反対側は 断崖に面しているが腰郭が残っているという。

【左上】二の郭桝形  二の郭の南端部に鉤形の土塁と空堀の跡が残っていて、主郭への虎口部分と なっている。東の奥にある丸馬出しも南端の鳴沢に面した所にあり、守りやすさからの 配置であろうか。
【右上】主郭背後の堀  社殿の所が破壊されてしまっているが、規模が大きい土塁と堀が残る。 現在残っている部分の堀は幅10m、深さ6m、長さ60mで、南端に折れがあり、この部分は 深さが2m程である。

【左上・右上】丸馬出し三日月堀と鳴沢側の土橋  いわゆる「重ね馬出し」と呼ばれる 馬出しの前面にもう一つ馬出しを付けたものが見られる。写真は主郭側のもので、前面の馬出しに 入るのは土橋を利用する。谷側に堀を付けているのは 小山城と同じ処理をしている。 そして、谷へ竪堀となって落ちているが、下には腰郭状に一度削平地があり、 荷揚げ用として利用していたのだろうか。
前面の馬出しは「丸」というより「角」馬出しと言った方がいい形だが、わざとそうしたのか 誤差の範囲内なのか?


【左】馬出し外側 東側の眺め
背後は山に向かって斜面が上っている。東側から城域である 西側に向かって低くなる、武田氏では小諸城 などと同じような土地であるが、土塁を高くすることによって、 外部からまったく中が見えないという利点がある。ただ、大規模な堀、土塁を普請できる 「力」がなければならないが。
また、城域東外側に古道が通っていたようで、現在西側の道が主となっているが、 当時は東側の馬出しがあるほうが、大手だった可能性もある。
西側は大井川に面しているため、河川交通との関連も考えられている。

現在海洋センターとなっている敷地部分も城域だったようで、昭和10年の図では 北側東面にも重ね馬出しが描かれているという。神社との間を通る道は堀跡だった。

しかし、なんでこんな山奥にすばらしい武田の城が・・・と思ってしまうのだが、 当時は甲斐から駿河への道で、
早川町→山伏峠→井川→大井川ルートや 身延町→安倍峠、南部町→十枚山から大井川へ入るルートがあったという。
そうすると小長井城の地は駿府、遠江への経由地となり、甲斐、駿河、遠江の三国の境目の城に なる。
また、安部金山などの搬出ルートとなっていたであろうから、その重要性は納得できる。



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