興国寺城

こうこくじじょう




興国寺城は北条早雲旗揚げの城として有名である。その頃は小規模な砦であったと思われ、 本格的な城として普請されたのは、今川義元時代の天文18年(1549)である。 天文14年、北条氏との争奪戦を展開した 長久保城はここから東へ約7.5qの場所にあり、 その補強という意味があったと思われる。
永禄11年(1568)武田信玄が駿府に入ると、 北条氏は駿河に侵入し興国寺城を占拠し、対武田軍との最前線基地となる。
元亀年間(1570〜72)には武田方の城となり、天正10年(1582)武田氏滅亡時には 城番であった曾根正清が徳川家康に降伏開城し、家臣となった。
その後慶長12年(1607)まで使用されるが、当時の城主天野三郎兵衛康景が逐電し、 廃城となった。
<場所>沼津市根古屋
<行き方>県道22号根古屋信号東側一本目の道を北へ入ってすぐ
<駐車場>発掘現場用駐車場有り 20台
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9

【上】本丸背後の大土塁より本丸、二の丸方面  現在公園化計画が進められており、 発掘調査が行われている。本丸をコの字状に巨大な土塁が囲み、南側に二の丸、三の丸がつづく。 しかし、二の丸は耕作地、三の丸は宅地などによって消滅していた。

【左上】本丸  現在神社があるが、背後の巨大な土塁には圧倒される。
【中上】本丸北側土塁上部  中央部のちょうど神社の背後にあたるところには、櫓台があり 礎石が残る。
【右上】櫓台下の石垣  土塁内側の櫓台下部分には石垣があり、崩壊を防ぐためのものと思われる。 使用されている石は結構大きいもので、櫓台と共に造られたと思うが、武田氏以降のものであろう。

【左上】本丸北側堀切  本丸北側には北の丸があり、その間に堀切がある。愛鷹山の山麓に 位置しており、長久保城と同様な地形である。櫓台の部分が北側に突出しているので、 堀はハの字状に弧を描く感じになっている。
【右上】北の丸より本丸方面  本丸土塁の上部が先に見える。本丸や二の丸よりも高い位置に あるが、巨大な土塁によって先はまったく視界に入らない。ここもおそらく耕作地に なっていたと思われるが、現在はさら地である。
私が行った時には崩落の恐れがあるため、本丸北側土塁からは直接北の丸には来られなかった。 一度県道側に下りて、西側の住宅地から回り込む事になる。

【左上】北の丸北側堀切  この堀切は埋められてしまったが、痕跡は残っている。この堀のさらに北 側には新幹線が通っており、後方の丘陵と遮断されてしまっている。
【中上】北の丸より東側の谷  北の丸部分は浅くなっており、本丸以南から15m程の断崖となる。
【右上】南側根古屋の町より興国寺城方面  愛鷹山の丘陵部先端に位置する。この道の突き当たりが 城域で三の丸、大手となる。


【左】整備計画図
手前が南となる。公園化する事によって現状の遺構が破壊されるような事が無いことを願う。
二の丸付近が大きく変わるようで、土塁や虎口など復元されるようだが、 現在まで残ってきた遺構部分と判別できるようにしてもらいたい・・・



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