丸子城

まりこじょう




今川家七代目氏親は京と鎌倉を結ぶ東海道をはじめ、四方の道が集中する丸子の地を駿府の西の守りとして、 斎藤氏の居城であった丸子城を拡張し駿府の支城とした。
永禄11年(1568)12月、今川軍を破った武田軍によって駿河府中は焼き討ちされ、駿府に陣を 布く武田信玄は西駿河に残る今川方の城に対処するために、山県昌景を丸子城に駐屯させて守りを 固めた。
永禄13年駿河全域を収めた信玄はその後丸子城の西側を増築し、城内各所に手を加えた。
天正9年(1581)3月、武田方の拠点高天神城落城を前に、 武田勢は城を明け渡して退去した。 その後徳川方の城となったが、家康の関東移封にともない廃城となった。
【左】城域西側の大鑪集落から丸子城の眺め

<場所>静岡市駿河区丸子
<行き方>国道1号二軒家信号西へ入る 誓願寺または稲荷神社が目印
<駐車場>誓願寺駐車場20台または稲荷神社前(駿河匠宿第2駐車場)
<撮影日>2004年1月
<参考文献>『日本城郭大系』9

誓願寺から道を隔てて前の遊歩道(東海道自然歩道)を登っていくと約15分で城の南端に出る。稲荷神社の奥を登っていくと、 城の北東部に出る。
丸子城は北部が今川氏時代、南部が武田氏時代に築城された城で、通称「北城」「南城」と呼ばれている。 それぞれの特徴がでている興味深い城である。


〜南城〜


【左上】「南城」主郭  丸子城の南端にあり武田氏時代の主郭になる。山城の割りには かなり広く削平された郭だ。
【右上】主郭虎口部  主郭の北側に土塁の切れ目があり、その外側にこの削平地があるという外桝形を 形成している。そして、北の二の丸へと板橋が架けられていた。

【左上】二の丸より主郭方面  各郭間は掘り切りがあり、二の丸から主郭へは板橋が架けられ、 二の丸南端には橋台と思われる突出部がある。
【右上】三の丸  二の丸北側尾根上にあり、ここまでが「南城」。この尾根の西側は 比較的緩い斜面の為、南北に長大な横堀を配しており、郭の西側にも写真のように土塁が続いている。

【左上】主郭東側支尾根上の段郭  現在4段が確認でき、その下は茶畑になっているので、 最下部は判別できないが、各段郭の比高は8mくらいあり北側谷には竪堀もいくつか確認できる。
【右上】段郭内部  周りには土塁が残っており、ここはかなりの防備がなされていたようだ。

【左上】主郭西側下の物見曲輪  横堀で主郭から一旦切られ、物見曲輪、その下に「大鑪(おおだたら)曲輪」 がある。
【右上】主郭西側下の横堀  ここから北へ横堀が続く。堀の左側は物見曲輪から続く犬走り。
【左上・右上】「大鑪曲輪」下の三ヶ月堀  物見曲輪の下には堀切られてから「大鑪曲輪」があり、 下の大鑪集落へと下っていく。
曲輪下側には三ヶ月堀があり、丸馬出しの形状となっている。この主郭から西下には曲線を多用した 武田氏特有の縄張りが見られる。

【左上】西側の横堀  ここは二の丸の下付近で、横堀が突出している部分。
【中上】張り出し部分の拡大  堀を道として利用し、ここから物見をしたのであろうか。
【右上】二の丸から見た張り出し部  ここまで横堀に細工をしているのもめずらしい。

【左上】張り出し部の南側の竪堀  途中で屈曲しており、下には道筋のように細長く削平された 跡がある。
【右上】横堀(三の丸下付近)

【左上】横堀(南城北端下付近)の土塁突出部分  ここは二の丸下とは違い、犬走り(土塁)の 部分が張り出している。
【中上】張り出し部下の三ヶ月堀  土塁下には堀が造られているという念の入り用。
【右上】三の丸から見た張り出し部  ここは南城の北端部でもあるため、このような出曲輪状の ものを細工して防備を固めたのであろう。それにしても様々な工夫が見られる城だ。


〜北城〜


【左上】横堀(北城下付近)  横堀北端部は竪堀によって区切られており、それはこのさらに 先20m程の所で、北城背後の尾根が堀切で切られている部分。この堀切が竪堀となっている。
【中上】北城主郭  ここから東の尾根上に二の曲輪、三の曲輪が続く。
室町時代初期からの在地土豪の居城であったらしく、北方下泉ヶ谷の扇状地に居館を構えていたという。
【右上】北城主郭から南城へと続く道  これは尾根東側になり、当時から連絡通路として存在していた ようである。

【左上】主郭より二の曲輪方面  緩やかに下っていく尾根で、各曲輪の北側は土塁に囲まれている。
【中上】二の曲輪虎口部分  ここが大手口といわれ、土塁が発達しており、二の曲輪へと入っていく。 現地看板には二の曲輪は腰曲輪となっている。
【右上】三の曲輪  主郭からここまでほとんど同じ大きさの曲輪である。案内板では東曲輪となっている。

【左上】北側下斜面の横堀  この大規模な横堀は武田時代に造られたものであろう。三の曲輪東側虎口部から 北側に周り、主郭北側下まで続く。西側の横堀と同等の規模で造られている。そして下から三の曲輪虎口へは この横堀の外側土塁上を登って行くことになる。
【中上】大手曲輪東端  東尾根の最下部にかなり広く削平されている部分があり、大手曲輪と看板にあるが、 規模、必要性からして当時からのものかは少々疑問が残る。後の時代の耕作地ではないだろうか。
【右上】大手曲輪からの眺め  現在も交通の要衝であり、すぐ下には静清バイパスが通り、写真 奥に延びる道は国道1号。静岡市へといっきにひらけていく。


〜誓願寺、丸子稲荷神社〜


【左上】誓願寺  城域西側の大鑪集落にある。この寺には大阪冬の陣が起こる前、 慶長19年(1614)豊臣家の重臣で賤ヶ岳七本槍の一人片桐且元が、方広寺の鐘に刻まれた 「国家安康」の文字について駿府城の徳川家康に申し開きするために、この寺に滞在していたという。
境内に且元夫妻の墓がある。
【中上・右上】片桐且元夫妻の墓  これは子孫の片桐石見守貞昌によって建てられたもの。


【左】丸子稲荷神社  駿河匠宿の第二駐車場の奥にあり、ここの裏手から登ると大手曲輪にでる。



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