長久保城

ながくぼじょう

《別名》 長窪城




長久保城の創始者については鎌倉時代初期に竹の下孫八左衛門が、この地に砦を築いたと いわれているが定かではない。
戦国期、今川氏により長久保城が構築され、東駿地方を治める拠点として、また北条氏に対する備えとして 築かれた。
天文14年(1545)には北条氏の持ち城となっていたが、その年今川義元の攻撃を受けた。 義元は関東管領上杉憲政と挟撃する体制を取り、武田信玄は甲駿同盟により駿河へ出兵した。 結果停戦となり義元、憲政と北条氏康との講和が成立し、長久保城には今川氏の城番が入った。
天文23年には義元が三河に出兵している隙をつき、氏康は再度駿河に侵入。今川、武田軍と対峙するが 戦況は進展せず、三者は婚姻により同盟を結んだ。
その後、武田氏の手に長久保城が渡ったのがいつであるか定かではないが、 興国寺城を持ち城とした 天正2年(1574)頃と考えられている。
武田氏滅亡後は徳川氏、北条氏滅亡後は中村氏が入り、関ヶ原の戦いにより中村氏の転封後、廃城 になったとされている。

<場所>駿東郡長泉町下長窪
<行き方>国道246号城山神社付近
<駐車場>城山神社西側に15台
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9、『長泉町史』上巻

【上】長久保城 西側より  愛鷹山の裾野が平野部に突出する部分に位置し、南東側先端は黄瀬川 に面している。両サイドは深い谷で、背後北西部を堀切ってできた城である。
現在は市街地化しており、遺構がわずかに確認できるだけだ。写真は西側天然の谷から見た長久保城。
【右上】大手付近より  大手は南側、現在の城山神社南側で、大手曲輪があり前面には三日月堀が あったという。写真の下長窪の集落を通る道の奥の林が城山神社。

【左上】城山神社に残る土塁  神社のある部分は南郭があったところ。その東側に本丸が あったが、現在はショッピングセンターの敷地である。ここの土塁の規模と城域全体の規模を 見るだけでも、普請の凄さが伝わってくる。
【右上】神社より北側の眺め  真下は現在246号バイパスが通っている。そこは八幡曲輪、二の丸が あった場所。その先マンションや北小学校が建っている場所には三の丸があった。
城山神社とバイパスの歩道脇に碑と説明板がある。

【左上・右上】三の丸北側 堀切の一部  小学校の北側、道の向かいに突然藪がある。右上写真は 反対側、東側の谷側からのもの。昔は西側にも堀があり東西の谷を結び、 中央付近で喰違い虎口を形成していたという。この堀から南側が城域となる。


【左】東側の谷  樹木などで視界はきかないが、谷底には人工の堀も造られたという。

この堀も含め、バイパス工事などで発掘調査も何度か行われた。
城山神社(南郭)と八幡曲輪の西側に三日月堀が検出された。二の丸と八幡曲輪との間等数カ所で 畝空堀が検出された。城郭大系などが総体的に武田氏の縄張りとしているが、長泉町史では 発掘調査によって検出された畝堀や北条氏が持ち城としていた期間が長い点などにより、 北条氏時代の遺構が主ではないかという考え方であった。
いずれにしても、ほとんど破壊されてしまった長久保城ではあるが、城域の巨大さとわずかに 残された遺構を見るとこの城の果たした重要性が窺われる。



城館探訪〜静岡県〜へ戻る