諏訪原城

すわはらじょう




諏訪原城は永禄12年(1569)に信玄が金谷台地に諏訪原など五砦を構えたのが始まりである。 しかし、徳川軍により諏訪原砦は攻略された。
その後天正元年(1573)高天神城 奪取を目指す武田勝頼は中継地点として馬場信房に命じ再び築城。この頃に現在の遺構にみられる 大規模な城にしたようである。
長篠・設楽原の戦いの直後、天正3年6月、徳川軍は諏訪原城を囲み約2ヶ月後、城兵はついに夜中に諏訪原を捨て 小山城へと逃げていった。
徳川家康は城名を牧野原城と改め、その後天正18年の徳川氏関東移封まで、駿・遠両国境の守りとしての役目を担い、 廃城となった。

【左】大手口の丸馬出し内にある諏訪神社  諏訪原城の名の由来である。
<場所>島田市金谷
<行き方>金谷市街より県道381号西へ
県道234号との交差点をそのまま234号へ左折し約200m左側
<駐車場>6台
<撮影日>2004年1月
<参考文献>『日本城郭大系』9



【左上】大手口  諏訪原城は主郭を要に西方向へ扇形に広がっている。二の丸、三の丸の 外側に巨大な空堀があり、その外縁に大小5カ所の三ヶ月堀が造られている。 大手口は南西側の最大の三ヶ月堀を持つ丸馬出しの南側となる。
【右上】大手口の三ヶ月堀  上幅15m、深さ最大で8m程はあるだろう。側面が垂直の壁となっている 巨大な堀には圧倒される。

【左上】大手より三の丸手前の空堀  扇の縁の部分で、ここ三の丸と北部の二の丸の部分が土橋によって 内部とつながる。長さが約221mの城内最大の堀である。
【右上】三の丸中部  外側縁の部分に土塁が残っている。三の丸はかなり南北に長く、地形も 北部と南部でだいぶ違っている。土塁や空堀によっていくつかの郭に分かれる。

【左上】三の丸北部  北部は耕作地だったようで、平坦になっている。逆に南部は深い林であるが 、そのまま遺構が残っており、見所のひとつである。写真奥に見える土塁が二の丸との境。
【右上】二の丸  内部は茶畑。写真奥が三の丸との境の土塁。

【左上】本丸  二の丸から内堀を土橋で渡ると本丸。入ってすぐの所は林で、奥はひらけている。
【中上】本丸  入って奥のひらけているところ。ここは耕作地であったようで、土塁が一部くずれている。 石積みもあるが、これも耕作地(茶畑だと思うが)だった時のものであろう。
【右上】本丸を囲む土塁  かなり幅広いもので、幅5〜10mくらいで四方を囲んでいる。

【左上】櫓台  本丸北東隅の土塁が広がっており、櫓台があったといわれる。
【中上】搦手口  本丸の背後に腰郭があり、その北東隅に搦手口がある。ここから東側下方に降りていくと、 大井川となる。
【右上】本丸より南東方向の眺め  現在唯一見晴らしがきく方向。大井川の両側に広がる平野が 眺められる。


【左】搦手側、本丸背後の空堀  本丸背後は急斜面であるが、搦手のある東側下より南側下にかけて、 小型の空堀がある。

【左上】大手郭の外堀  一部が城域の西側に残っている。大手郭は大手の丸馬出しの外側を囲むように あった。内側の巨大な堀とは違い、深さ1m程の浅くて小さいものだ。
【中上】西の丸(乾・西曲輪)  大手郭の北側に広がるが、現在は林の中である。
【右上】西の丸内部の石積  林の中に石の列が所々確認できる。当時のものかどうかは不明である。


【左】二の丸前の丸馬出し三ヶ月堀  2番目に大きい三ヶ月堀で、二の丸へ通じる。 この北隣に城の最北部にあたるが、小さい三ヶ月堀がある。あと小さいものが城の最南部に2カ所。 しかしこれらは丸馬出し虎口というわけではないので、虎口は大手前とここの二カ所である。

【左上・右上】三の丸前の空堀(南端部分)とその最南端の土橋  最南端は自然地形の深い谷となって 本丸前の堀と同じ谷へと落ちていく。そこを遮断しているのがこの土橋である。

【左上】本丸西下の井戸  内堀の中にある。
【中上】内堀南側  井戸の反対方向で自然地形の谷となって落ちていく。この下約70mの位置に 水の手(水源地)がある。
【右上】現代の水源地跡  水の手の所は現在も簡易水道の水源として使用されている。

【左上】大手口付近の石垣  いつ頃のものかはわからないが、古い時代のものに感じる。
【右上】大井川東岸より諏訪原城方面  西岸は金谷市街でその西側は急激に高くなり、その上に 諏訪原城はある。後ろ堅固な城である。



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