高天神城

たかてんじんじょう




戦国期、「高天神城を制するものは遠州を制す」といわれた要衝にある。
高天神城は今川氏真が掛川城を徳川家康に明け渡し、今川勢力が衰えると共に、武田、徳川両氏の攻防の 最前線の城となった。
元亀2年(1571)徳川方の城主小笠原長忠が二千の兵を以て守っていたところに、武田信玄が 遠江に侵攻、高天神城を内藤昌豊に攻めさせたが、守りが固く撤退した。
信玄没後、天正2年(1574)勝頼が猛攻。城主長忠は開城し、武田方に降りて城兵は退去した。
そして、長篠・設楽原の戦い後 、天正8年徳川方はこの城の周りに六つの砦を築き上げ、 付け城として高天神城を包囲し、 兵糧攻めをした。天正9年、ついに落城、城は廃城となった。

【左】大手口手前から東の峰の眺め  この付近に武家屋敷があったようである。


<場所>掛川市上土方嶺向
<行き方>県道38号
追手口、搦手口と
それぞれ案内板あり
<駐車場>追手口 10台
搦手口 大駐車場あり
<撮影日>2004年1月
<参考文献>『日本城郭大系』9


東の峰と西の峰にそれぞれ主郭を置く、連郭式・一城別郭式の山城である。 東の峰は本丸を中心として郭が尾根上に延びる単純な造りであるが、西の峰は 横堀、堀切、堂の尾曲輪など複雑な造り、大規模な工作をしており、新たに付け加えられたようである。
おそらく東の峰一帯は今川時代のものであり、西の峰は徳川か武田時代に造られたものであろう。
大手口は東の峰の東端にあり、搦手口は東の峰の西端、西の峰との接続部に入ることになる。

【左上】大手口  谷筋の道を登っていくが、頭上の右側は三の丸からの腰郭が続いており、横矢が かけられるようになっている。左側ははっきりした遺構はないが、こちらにもそうした郭があったであろう。
【右上】着到櫓跡  大手道を登り始めてすぐにある削平地。三の丸から続く腰郭の最先端部

【左上】三の丸下の井戸跡  大手道の東側、三の丸から続く尾根上に小郭が数段あり、そこにこの 井戸跡がある。写真の井戸のすぐ向こう側は崖で、下には大手道が通っている。
【右上】三の丸  小笠原氏が城主の時代、ここは小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として守備していた為、 別名与左衛門平という。周囲には土塁が巡らされている。

【左上】元宮  御前曲輪と本丸との間にある祠で、現在西の峰にある高天神社は享保9年(1724)にここから遷した。 東の峰では一番高い所にある。
【中上】御前曲輪  三の丸から尾根を上に登るとこの曲輪に出る。 昭和9年に土方村出身の海軍軍医少将加藤安吉氏が建てた二層の模擬櫓があった。 昭和20年に落雷で焼失し、今はコンクリートの基礎台のみが残っている。
【右上】御前曲輪からの北東方面の眺め  こちら側は断崖となっていて、 守りは堅固である。ここの付近は丘陵地帯が入り組んでおり、複雑な地形をしている。

【左上】本丸  御前曲輪より一段低くなっている。現在発掘調査中でシートが覆い被さっている。 奥の小山が元宮で、その先が御前曲輪である。 これらの曲輪の南西下の道が現在も使用されている 道で、その反対側である崖側の下にも通路があるようだが、通行止めになっている。
【右上】大河内幽閉の石風呂(石窟)  天正2年の勝頼による攻撃で小笠原氏は開城したが、 軍監大河内源三郎政局は留まり、勝頼の命に服さなかった。その為勝頼は政局を幽閉し、天正9年 徳川軍によって落城するまで、この中ですごしたという。その忠節を賞し家康から恩賞が与えられたが、 後に長久手の戦いで討死したと伝えられる。
中は二畳ほどの広さで高さは1.6m程。眺めはいい。

【左上】かな井戸  井戸曲輪という平坦地で東の峰と西の峰の間に位置する。
【中上】西の丸  井戸曲輪から西の峰に登った所にある。ここが西の峰の主郭部分にあたり、標高が一番高い所である。 しかし、西側山裾が比較的なだらかな為、小笠原・武田両軍が攻撃されて落城した際は、まず西の丸が落とされ、井戸曲輪 の平坦地に容易に敵が乱入できたことにより、本丸の落城に結びついたといわれる。
【右上】高天神社  東の峰の元宮から西の丸へ享保9年(1724)に遷された。

【左上】物見台  西の丸から南東方向へ延びる尾根上にある。ちょうど社務所の裏側からのびている 尾根である。その先にはやや下って堀切が2本あり、かなりいい状態で残っており、深さが8m くらいあって一見の価値はある。ただ道の状態が悪いので要注意。
【中上】馬場  西の丸から堀切を隔てて南西方向へ延びる尾根上にある。写真奥が「犬戻り・猿戻り」である。
【右上】「犬戻り・猿戻り」 犬や猿も恐れて戻ってくるという険しい尾根道という意味で、 天正9年武田方が敗れた際、軍監横田甚五郎尹松ら数名がこの尾根上1q続く険路を辿って脱出し、 甲斐へ至ったといわれ「甚五郎抜け道」ともいう。
現在も細い道が続いているが、案内板によると城の西側下にある「林の谷池」へと続いているようである。

【左上】二の丸  西の丸の北方向へ延びる尾根上、西の丸直下にある。写真背後の切岸上が西の丸となる。
【中上】本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清戦死の碑  天正2年の武田軍攻撃の際、二の丸主将であった 本間氏清が物見櫓で指揮をしていた際、鉄砲で撃たれて絶命。そのあと弟の丸尾義清が兄に代わって指揮を したが、同じく鉄砲で撃たれて絶命した。
二の丸脇の袖曲輪にこの碑があり、これは後裔本間惣兵衛が元文2年(1737)に建てたもの。
【右上】堂の尾曲輪の堀切  二の丸から続く尾根上、写真手前には横堀が北に延び西斜面の防備としており、その背後に堂の尾曲輪がある。 東斜面は断崖となる。この堂の尾曲輪の間に二カ所堀切がある。

【左上】堂の尾曲輪  二の丸から南北に延びる尾根上、緩やかで攻撃されやすい西斜面側に横堀を 造り、東側は土塁状になっている。これが堂の尾曲輪といっており、北端部はやや広い曲輪だが、 真ん中部分はこのような土塁上を平らにした感じである。この曲輪に本間氏清が撃たれた物見櫓があったようである。
【右上】横堀  100m程の長さがあり、外側の土塁上に犬走りを設けている。

【左上】三日月井戸  搦手口、東の峰西端部から20m程下った所にあり、天正2年に籠城 した武田勢が造ったものらしい。現在も岩壁から水がしみ出ている。
【右上】岡部・板倉の碑  城域の西側下にある「林の谷池」の所にある。搦手口駐車場から西へ200m 程。
岡部丹波守真幸は武田方の高天神城将で、徳川方の大久保忠世が守る「林の谷」へ斬り込み討死した。 板倉は不明だが、その時岡部と共に斬り込んでいった一人であろう。

【左上】搦手方面からの高天神城全景  左側が東の峰、右側の長い尾根が西の峰。
【右上】大手口からの東側風景



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