山中城

やまなかじょう




山中城の築城年代について確実な史料はないが、永禄10年(1567)頃に 北条氏康によって築城されたと考えられている。 駿河に進出してきた武田氏に備えるとともに、北条氏が駿河へと侵攻する拠点としても 使用できる位置にある。
天正年間(1573〜91)に入ると修築、拡張を繰り返し行い、防備が強化されていった。 天正18年(1590)3月29日、豊臣秀吉軍は山中城を攻城。城主松田康長以下約4千の兵に対して、 豊臣軍は堀秀政の右翼勢2万、徳川家康の左翼勢3万、豊臣秀次の大手軍2万、計7万の大軍を数え、 わずか半日で落城した。
<場所>三島市山中新田
<行き方>国道1号沿い 山中宿
<駐車場>国道沿いに数カ所駐車場あり
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9、『戦国の堅城』

【上】西の丸西側の堀  山中城の西側尾根を守る西の丸とその先端に付けられた角馬出し「西櫓」 との間には「障子堀」が配置されており、防御力を高めている。山中城一番の見どころ。

『山中城要図』



【左上】西櫓南側の畝堀  先端部に向かって高度を上げながら櫓を囲んでいる。畝は 堀の中の土を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2m、頂部の幅は約60p。 平均した堀底の幅は2.4m、長さは中央で9.4m堀底から西櫓までの高さ9m。
【右上】西の丸より西櫓  西櫓は角馬出しの役割を担っており、当時は西の丸から板橋が架かっていた。 また、西櫓の北側に板橋、南側に土橋を付けて外部へ出撃した。


【左】西の丸と西櫓との間にある障子堀
現在は遺跡保護のために畝が判別できる程度に遺構を盛り土で覆って、上に芝生を張り固定している。
当時は滑りやすい赤土のローム層の土が露出しており、湿気の多い山中城ではぬかるんで 甲冑を着けた人間が落ちたら、脱出は不可能だったと思われる。

【左上】二の丸  南へ傾いた斜面となっているが、本城域では最も広い郭である。 南へ下ると水の手である箱井戸へ続く。
本丸が狭いためその機能の一部を担っていたと考えられている。写真奥の櫓台左側が二の丸虎口。
【右上】二の丸虎口  二の丸へは三の丸から箱井戸を越えて長い屈曲スロープを上って来て、 大土塁(櫓台)に突き当たった所を右折して郭内部に入る。
写真は大土塁の所から屈曲スロープを見下ろしたもの。この虎口形状は北条氏による虎口の完成型といえる。

【左上】本丸  広大な城域を持つ割りには本丸の大きさはそれほどでもない。南側には2m程 下がって食料庫、弾薬庫が備えられていた。
本丸と北の丸との間には天守台があり、櫓が建てられていたと推定されており、写真は そこから撮ったもの。
【中上】北の丸  本丸の北側にある平坦で広大な郭で、北側の防備を担っていたと思われる。 周囲は堀で囲まれているが、北側は自然の谷を利用しているのであろうが急峻で巨大である。
【右上】本丸と北の丸との間の堀  ここは未発掘で2m以上埋もれている。 畝堀の頂上部がわずかに確認できる。

【左上】二の丸より岱崎出丸  天正17年豊臣秀吉の脅威に対して大改修が始まり、 岱崎出丸もその頃に造られた。山中城大手を通る箱根道を隔てて南側の尾根上に広がる郭群で、 箱根道がその尾根の西側下部を上ってくる。
【中上】出丸内部  現在は一面芝生が敷き詰められて広々している。御馬場曲輪は東面へ二段になっている。 改修が完全に終了する前に戦いが始まったようで、普請途中の部分もある。
【右上】出丸から西側の眺め  三島、沼津市街、伊豆一帯の平野部が見渡せる。

【左】一の堀  出丸の西側、箱根道に面した部分にある横堀で、畝堀となっている。 発掘の行われた範囲だけでも、長さは150m、17ヶ所の畝がある。堀底から出丸先端部の擂り鉢 曲輪までは急勾配が20m続く。
【右上】箱根峠方面  城内を箱根道(東海道)が通っており、関所としての役割も担っていた。


北条流築城術の粋が見られ、城跡保存の一つのモデルケースとして成功している 山中城は他にも見どころが多くあり、説明板なども充実している。
三の丸部分は山中宿として、そして現在国道1号が通っており、遺構は駐車場脇の堀が残る程度だが、 国道沿いにある宗閑寺には、山中城将松田康長、副将間宮康俊、豊臣方の一柳直末等の墓が 並んでいる。



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