荒戸城
あらとじょう

《別名》 新潟県南魚沼郡湯沢町



―歴史―

「あらと(荒戸)」という地名が史料上、初めて確認できるのは、天正6年(1578)6月27日付の「上杉景勝書状」である。 同年3月、上杉謙信死去後に上田長尾氏出身の景勝と、小田原北条氏出身の景虎による跡目相続争い(御館の乱)が勃発した。 景勝は上記の書状において、北条氏が景虎を支援するために、三国峠を越えて侵攻してきたら、「あらと(荒戸)の山中でその軍勢を防ぐように」と配下の上田衆に命じている。

御館の乱は景勝の勝利に終わったが、上杉氏と北条氏との領国境界域が上野・越後国境となったため、その後も荒戸城は国境維持のための城として機能した。
天正12年(1584)2月、景勝は上田荘(現新潟県南魚沼市・魚沼市域)の統轄者である栗林肥前守に対し、「荒砥関所」の管理を委ねており、 この頃には境界の交通にかかわる関所が、荒戸城もしくは周辺域に置かれていたことが窺える。
慶長3年(1598)、景勝が会津移封となったため廃城。しかし、その後江戸時代には荒戸城の西側山麓の八木沢集落内に八木沢口留番所が置かれている。

【上】虎口 荒砥城の見どころの一つ。虎口は北側に開かれており、横堀・土塁に折れを持たせ、馬出・内枡形をともなった巧妙な作りに仕上げている。

【左上】横堀 城は南東からの尾根先端部に築かれており、その先端部にあたる北から西側にかけて横堀が廻らされている。横堀は障子堀だった形跡がある。
【右上】二の郭から主郭への虎口 スロープを右に巻きながら登っていく構造となっており、横矢がかかるよう工夫されている。


【左】主郭 虎口が開く北東側から尾根続きである南東側にかけて、高い土塁が続いている。尾根側には堀切が一条確認できる。

―感想―
小規模な城でありながらも、技巧的で大がかりな普請が行なわれている。 上野国と越後国を繋ぐ三国街道・芝原峠を見下ろす位置に築城されており、街道を監視するには最適の場所である。
齋藤慎一氏は「戦国大名は境界の交通にかかわる施設を設定し、その地を把握する被官を配置していた。 その任務は、合戦時には他国からの侵入に備える一拠点となること、そして平時には境界の交通、とりわけ領国の外へ出ることを統制することであった」として、 荒戸城と荒戸関所の役割を規定し、両者が一体となって境界管理の機関を成していたと指摘している。
小規模な荒戸城では、実際に北条氏の大軍が来襲すると防ぎようがなく、御館の乱の際には上田荘内に侵攻されてしまった。 したがって、北条軍が荘内にいた天正6年(1578)8月下旬から翌7年2月頃までは、北条氏が利用していた可能性が高い。 北条氏の城に見られる、障子堀や本丸へのスロープをともなった虎口などは、北条軍の普請によるものか。
いずれにしても、少人数で効率よく守るための城として、非常に技巧的な見どころのある城である。


行き方 湯沢方面から、国道17号芝原トンネル手前の旧道を左に入る。道なりに約1キロ。
駐車場旧道沿いに有り 4台
撮影日2010年9月
更新日2013年11月11日
参考文献 ・『日本城郭大系』7巻
・齋藤慎一「境界認識の変化―戦国期国境の維持と管理―」(『中世東国の領域と城館』、吉川弘文館、2002年、初出1994年)
・広井造「荒戸城について」(『町史研究ゆざわ』T、湯沢町、2002年)
・『湯沢町史』資料編上巻・通史編上巻 
参考サイト埋もれた古城