武節城

ぶせつじょう

《別名》 地伏城




武節城は永正年間(1504〜21)田峯城 主菅沼定信の支城として構えられた。 信州街道の防備上に重要な役割を果たすものとして、菅沼十郎などの一族を城代として配した。
元亀2年(1571)武田信玄の三河侵攻の際、武節、田峯の菅沼氏は戦わずして軍門に下った。
天正3年(1575)5月、長篠・設楽原の戦い に敗れた武田勝頼が甲斐に落ちる途中、田峯城主菅沼定忠の 案内で田峯に入ろうとしたが、留守居役の今泉道善らの謀反にあい、段戸山中を通って苦難の末に武節城に 逃れ、甲斐へ帰った。
7月酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領するところとなったが、天正18年、徳川家康の関東移封 とともに廃城となった。

【左】武節城 北側より  南側、段戸山系からの尾根に堀切を設けて尾根先端部を城域としている。
 

『武節城要図』


<場所>愛知県豊田市武節町武節
<行き方>国道153号道の駅「どんぐりの里いなぶ」からトンネルの手前を左折し 案内板通りに約400m
<駐車場>10台以上
<撮影日>2006年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9、 『稲武町史』考古資料編 2000年
<参考サイト>城跡跡巡り備忘録」 「近江の城郭


【左上】本丸と背後の土塁  本丸部分は後世に削平されたようで、かなり広い駐車場と化している。背後の 土塁は規模が大きくその上は櫓跡と思われ、一つの郭となっている。現在は城山神社の建物がある。
【中上】北側より本丸、二の丸方面  車道が本丸まで通っており、その側面に沿って主要な郭が北東方向に 連なる。
【右上】本丸と外曲輪との間の堀 東側  自然の谷を利用したものであろうか、巨大な竪堀状になっている。

【左上】本丸と外曲輪との間の堀 西側  現在、最上部には痕跡が無いが東側との連続性が感じられ、 東西合わせて巨大な堀切となっている。
【中上】城域南端部  外曲輪の背後、尾根続きを掘り切る部分で、現在車道が通っている。
【右上】北西方面の眺め  武節城の北側を旧街道が東西に通っており、現在もその街道筋に集落がある。


〜感想〜
信濃、美濃との国境に位置する要衝で、武田氏から見れば三河進出への橋頭堡になる城である。
南側の尾根から本丸方向へはまず堀切で遮断し、外曲輪を配置、さらに巨大な堀切といえる東西からの堀を普請し、 巨大な土塁が本丸背後の防御となっている。東側は名倉川に面した断崖で、北、西面には帯曲輪を配している。かなり大掛かりな普請が 行われたと思われる。



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