田峯城

だみねじょう

《別名》 蛇頭城、竜の城




「山家三方衆」の一人、田峯宗家菅沼氏は作手の菅沼から田峯に移った。「菅沼記」によると菅沼定成は康正2年(1456)田峯の高勝寺へ 鰐口を寄進しており、この頃に移り住んだと思われる。
定成の嫡男定信が文明2年(1470)に田峯城を築城した。
元亀2年(1571)五代目の菅沼定忠は武田氏の誘いに応じ、これに従い武田方として活躍する。
天正10年(1582)定忠は武田氏滅亡の後、 信濃の伊那郡知久平において討死し、田峯宗家菅沼氏は断絶する。
同年定忠の叔父定直の嫡男定利が田峯宗家菅沼氏の遺領を継いだが、伊那郡代となって 飯田城へ転出し廃城と なった。

【左】西側より  現在、城域は整備されており、本丸部分に御殿、物見台などが復元されている。そのため 本丸内部は入城料金200円を支払って見学することになる。

『田峯城要図』


<場所>愛知県北設楽郡設楽町田峯
<行き方>国道257号より田峯集落へ 田峯小学校の南約200m
<駐車場>5台
<撮影日>2006年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9、 『設楽町誌』村落誌 2002年、 「歴史の里 田峯城」 (田峯城案内パンフ)
<参考サイト>城跡巡り備忘録」 「近江の城郭


【左上】表曲輪より本丸方面  北面から西面にかけて曲輪が階段状にあり、本丸搦手門に通じる。
【右上】本丸より西側の眺め  田峯の集落が見える。現在は国道がはるか下を通っているため、静かな 山間に広がる集落となっている。

【左上】復元大手門  大手門は本丸の東側にある。
【右上】南側 豊川(寒狭川)の眺め  南側から東側にかけては断崖となっており、はるか下に豊川を見下ろす。


〜感想〜
現在では田峯の地に本拠を構える地の利が見えてこないが、当時作手街道がここを通っていた ことから、当時の交通網は現在とは違っていたと思われる。位置的にも奥三河の中心部である。
縄張り自体は単純なものだが、空堀等の規模は大きい。土塁が一切見られないのは特徴的である。


〜田峯城内乱〜
五代目城主菅沼定忠は長篠の戦いの 大敗によって勝頼と共に田峯城に入ろうとしたが、 その報を受けた留守居の将、叔父定直と家老今泉道善らの 謀反にあって入城できず、武節城を経由して信州に敗走することを余儀なくされる。
天正4年(1576)7月14日、定忠は田峯城を急襲して、叔父定直と今泉道善を討ち、その一族郎党に至るまで 討ち果たして信濃に引き上げた。
現在、田峯には道善処刑の地といわれる「道善畑」や首をさらした場所といわれる「首塚」が残る。


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