不動山城
ふどうさんじょう

《別名》  新潟県糸魚川市越


―史料からみた不動山城―

永禄11年(1568)3月、甲斐武田氏と通じた揚北の本庄繁長が本拠村上で挙兵した。同年8月中旬、武田勢が長沼城へ在陣したと、飯山城から謙信のもとへ連絡が入った。謙信はその動きに対処するため、飯山城へ新発田・五十公野・吉江を配置し、関山の「新地」へは上杉十郎(景信)・山本寺(定長)・竹俣(慶綱)・山岸・下田衆を配置した。さらに、根知城不動山城へも「旗本の者共」を多数遣わした(北海道・柿崎氏所蔵〈『上』613〉)。その後10月に入ると謙信自身は村上へ出陣した。
この永禄11年8月の史料が不動山城の初出である。

元亀3年(1572)9月10日、謙信は在陣中の越中から、後藤勝元・栗林次郎左衛門尉・本庄清七郎3名へ書状を送った。その内容は… 上野国に在陣していた北条・武田両軍が撤退したとの知らせを根知から受けた謙信は、上野方面を守っていた上田衆を越中へ呼び寄せ、その控えとして後藤が指揮していた栃尾衆の一部も根知へ派遣するように命じたものであった(東大史料編纂所所蔵「栗林文書」〈『上』1117〉)
その8日後、謙信は山吉豊守・河田吉久・北条高定・山崎秀仙・長尾顕景(景勝)へ書状を送り、根知へは黒瀧衆、不動山へは庄田越中守を遣わすよう指示を出している(上杉家文書〈『上』1122〉)

謙信死去後、景勝と景虎による跡目相続争い(御館の乱)の最中であった天正6年(1578)6月〜9月初旬頃、根知城は武田方のものとなった。不動山城についても、いつ頃かは不明だが同様に武田方のものになっていたことが次の史料から窺える。
天正8年(1580)8月1日、仁科盛信は等々力次右衛門尉から来た書状に対する返信の中で、「不動山衆の在番交代は近日勝頼からご指示があるので、ますます城の警固・普請に少しも油断のないよう、(不動山在番衆へ)伝えてください」と言っている(穂高町・等々力家所蔵〈『戦武』3400〉)
したがって、勝頼の指示によって不動山城には安曇郡の小領主たちが交代で在番していたことがわかる。

同年12月14日、上杉景勝が勝頼へ条目を送っている(上杉家文書〈『新』281〉)。その端裏書には、長井丹波守が越後へ派遣された時の条目の写しと書かれており、条文のひとつに「根知之事」とある。
おそらく根知城や不動山城に関して、武田方による使用が認められた可能性が高い。

不動山城は天正10年(1582)の武田氏滅亡までは使用されたと思われるが、その後、同城が史料上に現れることはなく、天正11年(1583)、糸魚川に「新地」が築かれたことによって、上杉氏領国内の主要な城郭群からは外れたものと考えられる。


★★★山本寺氏と不動山城について★★★
不動山城の築城時期や城主については不明である。越後上杉氏一門である山本寺氏の居城であったことが一般に言われているが、その関係についても一次史料からは明らかにできない(軍記物や系図類には頻繁に見られるが、時代・名前の混乱がひどく、ここから何かを推定することは私の能力では不可能である)。

そこで信頼できる一次史料から山本寺氏を追っていくと…
永正5年(1508)9月、山本寺左京進は、長尾為景と守護上杉房能との対立に際し、為景方についたことで、上杉定実から「頸城郡上郷(現妙高市ヵ)之内上平右近将監分」「同郡夷守郷(現上越市周辺域)内袖山跡」を宛行われた(伊佐早氏所蔵「編年文書」11〈『越』3‐505〉)。この左京進山本寺定長に比定されている(西澤 2000年)

永禄4年(1561)8月、謙信は山本寺伊予守(定長)を越中に在陣させている(上杉家文書〈『上』280〉)
同11年(1568)8月、謙信は信玄の越後侵攻に備えるため、定長を「関山(現妙高市)之新地」に派遣している(北海道・柿崎氏所蔵〈『上』613〉)

以上のことから、山本寺定長が謙信の父である為景の時代から重用されていたことが窺われ、頸城郡内に活動拠点があったことは想定できよう。
しかし、最初に記したように永禄11年には「旗本の者共」、元亀3年には庄田越中守が不動山城へ派遣されていることから、この頃には在番制の城となっていた可能性が高い。


元亀3年(1572)、山本寺定長は再び越中へ派遣されている(上杉家文書〈『上』1108〉)

次に山本寺氏が史料上に登場するのは、天正9年(1581)12月、山本寺松三景長である(伊佐早文書(東大影写)〈『上』2257〉)
景長は越中の魚津城に在城していたと考えられ、織田軍が迫っていた翌10年4月13日には、在城衆12人宛てに景勝から激励の書状が送られている(反町氏所蔵〈『上』2348〉)。その中で、景勝は景長に対して「名字といい、その身の若さといい、代々弓箭の家柄であるから、今こそ思いを決して臨んでほしい」と書いている。
つまり、景勝は山本寺氏が由緒ある家であり、上杉家にとって重要な位置付けであることを述べている。また、景長がまだ若いこと、越中方面の守備を任されていることから推測すると、彼は定長の子息であろう。

参考ではあるが、「藤原山本寺氏系譜」には景長について、「謙信公の近侍、御館の乱の時に景勝に属し、兄景定の遺領を賜る。天正10年6月3日、魚津で戦死。年三十三歳。三本寺殿虎山玄龍大禅定門と号す」と書かれている(『越』6‐222)

西澤氏は、山本寺定長が越中方面の主将として謙信から期待されていたことを指摘し、彼が越後西部に位置する不動山城を本拠としていたことから妥当な戦略であるとしている(西澤 2000年)

『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編、『上』(文書番号)…『上越市史』別編 上杉氏文書集、『新』(文書番号)…『新潟県史』資料編、『大町』(文書番号)…『大町市史』資料編、『越』(巻‐頁)…『越佐史料』


【上】西側より不動山城全景
独立峰である不動山(447.3m)と、その南東側の麓にある要害地区が城域と考えられている。
写真からもわかるように周囲に遮るものがないため、西頸城地域一帯が見渡せる位置にある。


『不動山城縄張図』



―立地―
日本海から早川を約4q上流にのぼった北岸に位置する。不動山という独立峰にある城域は急斜面に囲まれた要害だが、麓の南側はなだらかな斜面が続いている。また、北側は御溝川によって周囲の山々から画されている。


―アクセスルート―
【左上】要害集落付近
県道270号から越簡易郵便局方面に入り、越橋を渡って早川北岸へ。あとは要害集落方面へ登って約10分。道は狭いが簡易舗装がされている。

【右上】要害集落からの不動山城
写真右手に不動山農村公園があり、大駐車場・トイレ完備。ここから徒歩約5分で登城口。
林手前付近が「御殿屋敷」と呼ばれている。ここからさらに道を進んだ行き止まりが登城口となっており、そこにも数台は駐車できるスペースがある。


―現況―
【左上】登城口(狼煙場) @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
城域南東端に位置する。道をここまで通したことで遺構の一部が破壊されている気もするが、写真正面には南に延びる尾根上に大規模な郭が階段状に連なっている。

【右上】竪堀 A
主郭から東へ延びる尾根の堀切から南斜面を下っている。城域東側には同様な竪堀がもう一条あり、主要な郭が広がる城域西側への移動を妨げている。

【左上】三の郭付近 B
城域東側から南側斜面を横切り、西側の郭群に入ったところが三の郭。

【右上】二の郭付近 C
三の郭から北東へ登ったところが二の郭。広大な平坦地が広がる。写真の先にみえる切岸を登ったところは、長方形に整地されている。周囲の縄張とは違和感があるため、後世に造成されたものであろうか。

【左上】主郭 D
東西約21m、南北約15m。それほど広くはないが見晴らしは抜群。現在、主郭内部には石祠、不動山城の石碑のほかに電波塔が建っている。

【右上】主郭から糸魚川方面の眺め E
早川流域に広がる低地が麓に見え、遠くに糸魚川市街地や日本海が見える。

【左上】主郭東側尾根・堀切 F
やせ尾根はこの堀切によって画され、さらに竪堀となって下っており、南側は写真Aに続いている。

【右上】「御殿屋敷」付近 
土塁の一部か古墳か。耕作地跡に一箇所だけ盛土状に残っている。


―感想―
城域は想像以上に広く、要害地区も含めてすべてを見て回るには1日かかる。今回は主要部分を回っただけで時間切れだった。
この広さ、そして史料上からも謙信期には、根知城とともに領国西側の拠点城郭だったことが確認できる。
また、御館の乱以後、武田氏による普請もあったことで、現在みられるような縄張が完成したのであり、そうした観点からも注目すべき城である。

残念ながら不動山城・早川谷地域と山本寺氏との関係については不明な点が多く、不動山城が同氏の本拠として一般的に言われるようになったのはなぜなのか、それはいつ頃からなのか、今後の課題である。


行き方 県道270号、越簡易郵便局方面へ入る。越橋を渡って道なりに要害集落へ登って行く。
道の行き止まりが登城口。
駐車場不動山農村公園に大駐車場あり
撮影日2015年12月9日
更新日2016年8月14日
参考文献 『日本城郭大系』7
『糸魚川市史』1(糸魚川市役所、1976年)
西澤睦郎「謙信と越後の領主」(池享・矢田俊文編『定本上杉謙信』高志書院、2000年)
参考サイト城郭放浪記