古宮城

ふるみやじょう




元亀2年(1571)武田信玄が東三河に進出した時に築城されたといわれ、 江戸中期の文献『三河国二葉松』には馬場美濃守の縄張りによって築かれ、 小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守等が居城したと記されている。
しかし2年後の天正元年8月には、奥平、徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。

【左】古宮城全景 南方の亀山城より  独立した小山全体が城域となっている。 当時古宮城の南、北、東の三方は 湿地帯だったという。塞之神城麓 の西側(写真左側)のみが唯一の地続きであった。
この地は山家三方衆の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、そして西方の足助を通る三州街道にも通じる要衝であり、 作手奥平氏本拠の中心部に位置する。

<場所>愛知県新城市作手清岳
<行き方>国道301号から県道436号に曲がってすぐ左側、 古宮白鳥神社の背後の山
<駐車場>古宮白鳥神社の東側 5台
<撮影日>2006年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9、『作手村誌』1982年、「作手戦国絵巻 歴史の小径」 (作手村の案内パンフ)
<参考サイト>城跡巡り備忘録」 「近江の城郭


【左上】北大竪堀  小山を中央部から東西に分断するように、北、南に巨大な竪堀があり、頂上部において幅4m程の通路で 東西の部分がつながっている。そのため、西側から東側への侵入を遮る巨大な堀切ともいえる。
【中上】東主郭部虎口  古宮神社の脇から「大ひのき」の案内板に従って登ってくるとまずここに出る。
当時は地続きの西側に大手口があったであろうから、西側の郭を経て東側虎口に到達したと思われる。 虎口を入ると枡形がある。
【右上】東主郭  頂上部は平坦地を南北の土塁で二つに区切っている。郭周囲は北大竪堀に面した西側から 虎口のある南側にかけて土塁がめぐっている。

【左上】西主郭  西側の頂上部も平坦地を南北の土塁で二つに区切っている。しかし、こちら側は郭周囲を土塁で 完全に囲んでいる。
【中上】西二の郭 北東側虎口  西側は北東側と東側の二ヶ所に虎口を設けている。北東側は北大竪堀の 側面に出て、そこには平坦地(写真手前側)が竪堀に沿って下っている。
【右上】西二の郭直下の横堀  西側は頂上部の郭周囲を半円状に囲むように横堀が何重にも斜面に形成されている。 地続きの西面防御のためであり、その規模は圧巻である。

【左上】第二横堀  上から二番目の横堀。斜面中腹より下部は、南面が断崖にちかい状態のため、 西面から北面にかけて横堀が続いている。
【右上】北大竪堀脇より横堀の眺め  第一、二、三の横堀。写真からもわかるとおり、横堀は 高低差があり、堀の中を進むと上部へ登っていけるように見えるが、実際は各所で行き止まりとなって袋のねずみ状態になる。


【左】北西部麓の横堀
さらに外側には小川が流れており、当時は城域北面を防御する水堀の役割を果たしていたと思われる。

【左上】東主郭下 北面の郭群  東郭下には不規則に階段状の郭が造られ、その間に二条の竪堀がある。
【中上】竪堀  土塁を伴う大きなもので、北東方向と東方向に見られる。
【右上】北東部麓の横堀  平坦地とその外側に土塁が続いている。北部麓には溜池、東側麓には馬場があったという。


【左】西側麓より南方亀山城方面  南西麓は民家などがあり、原型をとどめていないが、おそらくこの付近が 大手口であったと思われる。

〜感想〜
三河の武田最前線部にこれだけ大規模な普請を尽くした城が造られたのは、やはり三河制覇のための一大拠点にしようと した意図が感じられる。
縄張りは南北の大竪堀を境に、西側は横堀を主体にして、東側は郭を主体に配置している。
戦時には地続きである西側が攻撃の正面になるであろうから、西側全体が「出郭」としての機能を発揮する。


作手村観光協会のパンフレット「作手戦国絵巻 歴史の小径」には、 塞之神文殊山川尻 、古宮、 亀山石橋の6城が掲載されており、地形図、縄張図付きと大変重宝しました。
私は道の駅「手作り村」で入手しました。城は観光コースになっており、案内板も出ている為、 かなり楽な城巡りができます。


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