鉢形城

はちがたじょう




鉢形城の築城年代は定かではないが、文明8年(1476)長尾景春説が有力である。 その後は山内上杉氏を経て上杉氏の家老藤田康邦が城主となったが、小田原北条氏の 勢力の増大につれて北条氏康の三男氏邦を養子として迎え入れた。氏邦は永禄3年(1560)頃に 鉢形城を大改修し、北条氏傘下の上野沼田・箕輪城をも預かり大城主となった。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本多忠勝、真田昌幸らに 包囲され落城した。
<場所>埼玉県大里郡寄居町鉢形
<行き方>寄居駅より荒川方面へ 正喜橋を渡って右折
そこから直進500m先諏訪神社付近までが城域
<駐車場>諏訪神社前 5台
<撮影日>2004年4月

【上】正喜橋からの鉢形城  写真に見える荒川と奥を流れる深沢側との合流地点の舌状台地に 城域が広がる大規模な平山城である。写真正面付近が本丸となり、奥の方に大手がある。

【左】鉢形城縄張り
城内にも水堀がめぐっていたようである。現在の城域の中を南北に 通っている車道は水堀跡か。現在地とある所が諏訪神社の ある郭で、ここも一つの独立した郭となっている。図の上部がほぼ南となる。

【上】大手曲輪より城内方面
お花畑となっている所が大手曲輪で、周りは大規模な堀に囲まれている。 城域の中で一番新しく造られた部分ではないだろうか。普請の規模、造りが本丸付近とはまるで違う。

【左上】南東堀底より大手曲輪  東側の堀底は湿地帯で、一番規模の大きい見ごたえのある所だ。
【右上】大手曲輪の堀西側  写真左手が大手曲輪で、堀の右手には道路と八高線が通っている。

【左上】大手曲輪より堀の東側  奥の森林地帯が深沢川の流れで、その手前に土塁が確認できる。
【右上】東側堀底より土塁  所々崩れているが、1.5m〜2mくらいの土塁が深沢川に沿っている。 この付近の土塁は上部の幅が2mくらいある。

【左上・中上】大手曲輪北側 三の丸付近  左上写真中央に東側の堀に流れ込む形で浅い堀が見える。 その部分の拡大が中上の写真で石積みが確認できる。
【右上】二の丸付近車道より東側堀  今までの写真とは反対側から撮ったもの。車道により破壊された部分 もあるようで、道の反対側との整合性が無い部分もある。

【左上】大手付近より「車山」  大手より西南方向1qにある車山からは本多忠勝軍が大砲で 大手方面を攻めて城内は大破した。戦死者も続出したため城兵の士気が衰えたという。
【中上・右上】諏訪ノ池  諏訪神社と大手の間にある池で、ここも水堀の一部だった。 中上写真手前方向が大手西側の堀。右上写真は反対側、秩父曲輪から大手方面。

【左上】諏訪神社  武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって、出仕した時、 信州諏訪神社を守護氏神として分祀したという。天正18年落城後、城下の人々が鎮守様として、 館跡を社地として現在の神社を造営した。
【中上・右上】秩父曲輪  現在秩父曲輪から二の丸にかけて復元城門や石垣など公園化が 進んでいる。右上写真は復元城門から諏訪神社方面。

【左上】秩父曲輪の復元石垣  どの程度の復元なのか不明。案内板が全くないのが残念。これから できるのか?
【中上】秩父曲輪と二の丸との間の堀  ここもしっかり整備されているが、中に入れないのが さみしい・・・
【右上】二の丸  芝生養生中で立ち入り禁止になっていたが、城址というより普通の公園に なってしまいそう・・・大手付近は是非あのままの状態で残してほしい。

【左・上】本丸  現在本丸と呼ばれる所はかなり広い部分で、南北に真ん中を車道が通っている。 そこより西側の荒川沿いが高台となっており、実際の本丸であろう。

【左上】本丸より荒川  ちょうど荒川の流れが蛇行したカーブ部分の崖上に城域がある。
【右上】荒川対岸  現在の寄居町の中心部になる。

【左上】御殿下郭  本丸から車道の東側は「御殿下郭」と呼ばれている。現在林業試験場などの建物があり、 遺構の破壊されている部分がある。
【中上】本丸を貫通する車道  水堀跡に道を付けたのであろうか。左が本丸、右が御殿下郭。
【右上】深沢川  御殿下郭の部分では20mくらいの断崖となっており、天然の堀として申し分ない。

【左上】搦め手  深沢川にかかる橋があり、そこを渡った所にも曲輪があったようだが、宅地化して おり、遺構は確認できない。
【中上】大手付近の深沢川  こちらは幾分低くはなっているが、10mくらいの崖である。
【右上】外曲輪付近  大手から深沢川を挟んで反対側に運動公園があり、その付近の 写真。土塁、外堀跡の大規模な遺構が確認できる。深沢川の東側には外曲輪があり、大手にかけて城下町が 形成されていたという。



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