一乗谷城

いちじょうだにじょう




朝倉氏は元々現在の兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に 入国した。
応仁の乱(1467〜77)の時、朝倉孝景が一乗谷に本拠を移し、2代氏景の時に越前守護斯波氏、 甲斐氏を追放した。3代貞景が永正3年(1506)に加賀一向一揆を撃退したことにより、 ようやく越前は安定した。
4代孝景の時に最盛期を迎え近江、山城などに出兵し、京、奈良のの貴族、僧侶などの文化人が 戦乱を避けて下向してくるのを庇護した。
5代義景は後の15代将軍足利義昭を迎えたが、義昭は上洛することができない義景を見限り、 織田信長の元へ去っていった。
その後、天正元年(1573)義景は織田信長との戦いに敗れ5代103年続いた 一乗谷朝倉氏は滅亡、一乗谷の町は戦火によって焼土と化した。
これにより400年以上もの間、館、城下町もそっくり埋もれて残されたという貴重な遺構。
昭和42年から発掘調査が進められ、現在は平面復元以外に町並復元も行われ、当時の武家屋敷、町屋が再現され、 当時の様子を実体験で知ることができる。

<場所>福井市城戸ノ内町
<行き方>国道158号天神信号を南へ 足羽川を渡り県道31号左折  約1q先県道18号右折
<駐車場>史跡公園センターと復元街並み南側に大駐車場
<撮影日>2004年7月

【上】朝倉義景館 唐門  義景の菩提を弔う為に館跡に建てられた寺、松雲院の正門で江戸時代に 建てられたもの。西側に面しており館の正門にあたる。他に北門、南門と 計三カ所に出入り口がある。


〜義景館、武家屋敷、町屋群〜


【左上】館全体  東側背後には山城に登る道があり、その途中から見た全体。約80m 四方あり、東側は山に接し、三方は土塁とその外側には堀がめぐらされている。整然と礎石が並び、 どんな建物があったのかなど、判別され資料館には立体模型も展示されている。
【中上】朝倉義景の墓  館の東南隅にある。江戸時代に松雲院が建立された頃に、この墓も建てられた という。
【右上】庭園  東側の山際にあり、近くの諏訪館庭園、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園とともに、 国の特別名勝に指定されている。

【左上】中の御殿  義景館の南側高台にあり、義景の母高徳院居館といわれ、周囲は土塁、空堀で 囲まれている。
【中上】中の御殿南側の堀  諏訪館との間にこの堀があり、谷の 中央を流れる一乗谷川へ向かって下がっていく。
【右上】諏訪館  中の御殿の南側には義景の妻少将の館があり、最も規模の大きい庭園が残る。

【左上】英林塚  初代朝倉孝景の墓。一乗谷に本拠を移し繁栄の基礎をつくった。義景館、中の 御殿から山を3分程登った所にある。周りはコンクリートの小屋で厳重に保護されている。
【中上】朝倉景鏡館跡  景鏡(かげあきら)は義景の従兄弟で地位は高かったという。義景館から 北へ約700mの所にある。
【右上】寺院と町屋群 平面復元地区  館群とは一乗谷川を挟んで反対側にあり、かなりの広い 範囲で発掘されて、寺院や武家屋敷、道に面しては紺屋、鋳物屋、左官などの職人の家などが 並び、医者の家もある。館だけでなく町全体が発掘されているという事が実感できる場所。

【左上】復元町並  寺院と町屋群から南側に続いた所で、ここでは武家屋敷や町屋が再現されている。 発掘された塀の石垣、建物の礎石をそのまま使い、柱、壁、建具なども出土した遺物に基づいて 復元されている。ここには一般?観光客もたくさん来るので賑わっている。
【右上】武家屋敷  復元街並の西側山際には武家屋敷が整然と並び、計画的に城下町がつくられた 事がわかる。


〜一乗谷城(山城)〜



館の背後、東にある一乗谷山の頂上付近にある城で、南北に走る尾根上約500mにわたって遺構が ある。
登り口は3カ所あり、下城戸外の安波賀からの道、馬出からの道、館裏からの道である。
馬出からの道が大手道で、急な山道を約1時間登る。どの道からもだいたい同じくらいの時間で登る 事になる。

【左上】水の手付近  谷に囲まれた所に水の手があり、ここから城域に入ったと 感じるところ。
【中上】不動清水  水の手一番奥に不動明王が祀られた湧き水がある。
【右上】千畳敷  水の手からさらに登るとこの千畳敷とよばれる大きな削平地がある。ここから 南西側に観音屋敷、宿直と呼ばれる削平地が続いている。

【左上】千畳敷にある礎石  草むらの中に建物の礎石が並んでいる。
【中上】観音屋敷の土塁  千畳敷の隣りには観音屋敷と呼ばれた郭があり、土塁で囲まれている。 背後の一段高い所には赤淵神社跡がある。
【右上】宿直跡  観音屋敷の西南側にある。千畳敷、観音屋敷、宿直跡を総称して本丸跡と 言い、背後は本丸跡を囲む形で櫓跡、一の丸、月見櫓跡がある。

【左上】宿直跡より一乗谷の眺め  真下にある館などは見えないが少しはずれた南側部分の谷が 一望できる。
【右上】福井平野方面の眺め  北西方面には福井平野が広がる。1時間かけて登ってきた甲斐がある。 手前の山が谷の西側であるが、ここにも砦、櫓などが多くある。さらに福井平野から一乗谷への 入口部分両側に槙山城、成願寺城があり一乗谷を防御する。

【左上】一の丸北西下の横堀  千畳敷からさらに登って、尾根上を南東方向へ行くと一の丸、 二の丸、三の丸と続く。各郭の間は堀切によって別れており、現在の遊歩道は郭の西側下を 通っている。最初の一の丸手前には横堀が見られる。
【中上】一の丸内部  各郭内部は藪化している。一の丸内部は三段ほどの段差があり、徐々に 高度を上げていく。
【右上】二の丸、三の丸間の堀切  遊歩道によって一部破壊されているが、 かなり大規模な堀切である。
山城部分には規模は小さいが竪堀も無数にあり、特に城域の東面には畝状竪堀が何カ所もある。


〜上城戸、下城戸〜


【左上】諏訪館下より上城戸方面  一乗谷の谷が最も狭くなっているところに二カ所、土塁を築き城門と した。上、下城戸の間は約2qあり、「城戸ノ内」と呼ばれている。ただ城下町は 城戸の外にも広がっており、重要な地位にある人々の屋敷も城戸の外に結構ある。
【右上】上城戸の土塁と堀  上城戸は南端部に位置し、ここから府中(武生市)へ「朝倉街道」 が延びている。こちらが大手口とする説が有力である。
土塁は幅13m、高さ5m、長さ50mが残っている。 外側には空堀がある。

【左上】上城戸より山城方面  奥に見える山の頂上付近になる。
【右上】一乗谷の眺め  谷の真ん中を一乗谷川が流れ、その両側に遺構が広がる。

【左上・右上】下城戸  谷の北端部になる。現在は道路等によって破壊されてしまっており、 幅15m、高さ5m、長さ20mが残っている。外側には水堀があり、一乗谷川と つながっていたと考えられている。

【左上・右上】虎口部分  城戸の土塁の内側に西端の山際から土塁が出ており、 喰い違いに配置されている。左が外側から右が内側からの写真。巨石を使った石垣に圧倒される。


〜西山光照寺跡〜


【左上】西山光照寺跡  下城戸の外側、北西約250mの所にあり、朝倉時代最大の寺院だった。
【右上】石仏群  旧参道の両側に38体の石仏が残っている。石仏は この地方で取れる笏谷石に彫られたもので、永正、大永、天文などの年号が読みとれる。
一乗谷には約40の寺院があったと推定され、約3000体の石仏、石塔が分布している。


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