岩村城

いわむらじょう

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岩村城は源頼朝の重臣、加藤次景廉が文治元年(1185)に築いたといわれ、景廉の嫡男 景朝が岩村に移り、姓を遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。
戦国時代に入り、元亀元年(1570)武田信玄の家臣秋山信友が岩村城を攻撃、その時の城主 遠山景任は織田信長に救援を求めた。信長の命により岩村城に入った明智光秀と共に戦った。 元亀3年景任が病没すると、信長は六男の御坊丸を養子として家督を相続させたが、信長の叔母 で景任の妻おつやの方が女城主となった。
景任の死が信玄に伝わると再び秋山信友が東美濃に侵攻、岩村側はおつやの方と信友の婚約などで 和議を成立させ、御坊丸は人質として甲府へ送られた。
天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いで 武田軍が惨敗すると岩村城へは信長の嫡男信忠軍が 攻撃を開始し落城、信友夫妻は処刑された。
以後城主は河尻秀隆になりその後森蘭丸、兄の長可、末弟の忠政と森三代、田丸具忠と28年間 交代が激しかった。
関ヶ原の戦い以後、松平家乗(大給松平家)が城主となり近世岩村藩が成立する。
その後は松平氏二代、丹羽氏五代、松平氏(大給石川)七代を経て明治を迎えた。
<場所>恵那郡岩村町城山
<行き方>国道257号から岩村町役場脇の国道363号へ入る
すぐ右折して岩村高校の脇を通り、岩村町歴史資料館へ
<駐車場>資料館前 大駐車場
<撮影日>2004年6月


【左上】藩主邸太鼓櫓  江戸時代、城下に時を知らせる為に造られた櫓。平成2年に藩主邸跡に復元 された。
【中上】岩村藩主邸跡  江戸時代に入り松平家乗によって創設され藩主は岩村城本丸から、ここへ 降りて入った。
【右上】藩主邸跡から城下町の眺め  城下町の街並みは現在でも雰囲気を残しており、国選定の 重要伝統的建造物群保存地区となっている。


〜登城坂から八幡曲輪〜


【上】藤坂  現在は石畳の道が続く登城坂である。一の門に至る約300mの間をいう。 急な坂道で岩村城守備の前衛の役を持っていた。

【左上】初門  藤坂の途中左に折れる所にあり戦争になるとここに門を構え柵をめぐらして、 強固な防衛陣地とした。
【中上】一の門  藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが本城となる。 櫓門と左側に番所があった。右側には石垣が連なって、その上には屋敷があった。
【右上】大手門三重櫓跡の石垣  城下から見た時に一番目立つのがここに建っていた三重櫓だった。 石垣も高さが10m以上はあり、かなり立派なものであったことがうかがえる。

【左上】畳橋跡  大手道はこの上から橋によって空堀を渡って大手門桝形へと続いていた。 敵が攻めて来たときには橋の橋板を取ってしまうところから畳橋という。
【右上】大手門内より城内  ここから直線の道を登って八幡曲輪、三の丸へと行く。石垣の武者返しが スゴイ。

【左上】霧ヶ井  城内には所々にこうした井戸が見られる。この霧ヶ井は城主専用のものであったという。
【右上】八幡曲輪石垣  この曲輪最上部には八幡社が祀られている。城内には様々な石垣があり、 岩村城の見どころのひとつである。


〜三の丸・二の丸・本丸〜


       


【左】二の丸多聞櫓石垣
八幡曲輪から右へと回り込んでいくと三の丸。右上には二の丸があり、 8m高程の石垣が続く。この角の部分に多聞櫓があって石垣は多角形状に地山の形に合わせられている。

【左上】二の丸 弁天池  水をたたえた池の中央に弁財天の社があった。
【右上】二の丸内部の石垣  二の丸の中央部に段差があり、多聞櫓側が低くなっている。その 部分の石垣で、上部には番所や蔵があったようだ。

【左上】「六段壁」  東曲輪虎口部分でここから本丸東門へと通じる大手筋にあたる。 地形が急傾斜のためにとった工法で石垣が六段になっているので六段壁とよばれている。
【右上】東曲輪より「六段壁」

【左上】東曲輪虎口部分  階段左側には二重櫓が建っていた。
【右上】東曲輪から本丸東門部分  この部分では道が九十九折り状になっており、石垣の造りの 複雑さも建築物が無いおかげ?でよくわかる。


【左】本丸
本丸はかなり広く東西約31m、南北約66mで、二重櫓と納戸櫓、多聞櫓が3つあったという。
標高721mの山頂が本丸で、江戸諸藩の府城の中では最も標高の高い所に築城されており、 大和の高取城、備中の松山城と並び、日本三大山城といわれる。


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