金沢城

かなざわじょう




金沢城の本丸付近には天文15年(1546)に、本願寺の出先機関としての「金沢御坊(御堂)」が 創建され、一向宗徒のシンボル的存在であった。本来御坊は寺であったが、 政治、経済、軍事の中枢として機能していた。
天正8年(1580)、織田信長の北陸方面軍、柴田勝家の攻撃により御坊は孤立化し、 勝家の家臣、甥である佐久間盛政によって占領された。御坊は盛政によって戦国城郭「尾山城」として 改造されたのだが、信長亡き跡の豊臣秀吉と柴田勝家との主導権争い、賤ヶ岳の戦いで盛政は 捕らえられ処刑されてしまった。
その後、北陸制圧に功のあった前田利家が尾山城に入り、近世城郭「金沢城」へと 変化していった。当時、利家家臣として仕えていたキリシタン大名高山右近が築城において、 大きな貢献をしたといわれる。
その後は加賀百万石前田家の城として、明治を迎えるまで続いた。
<場所>金沢市丸の内
<行き方>国道157号より県道10号へ
<駐車場>付近の有料駐車場利用
<撮影日>2004年7月

【上】三の丸より石川門櫓  現在の金沢城のシンボル。ここ石川門と本丸下の三十間長屋が 重文指定を受けている。


【左】現在の金沢城地図

地図上部の南側、緑地になっているのが本丸で、一番高台になる。そこから北へ下がって 二の丸、三の丸、さらに下がって新丸となる。
佐久間時代は西に大手があったが、前田時代に北へ大手を移した。
二の丸、三の丸、新丸は明治以降旧陸軍敷地、金沢大学のキャンパスとなっていた為、往時の面影は 薄い。ただ石垣は残っている。そして二の丸には平成13年に菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が 復元された。

【左上・右上】石川門櫓  手前は蓮池堀、通称百間堀とよばれる堀跡で、現在は県道が 走っている。県道の反対側が兼六園。漆喰塗り、腰部になまこ壁と華やかな雰囲気を持つ。

【左上】石川門 一の門  金沢城の搦手門で桝形を形成している。宝暦火災(1759)の後、 天明8年(1788)に再建され、現在に至る。
【右上】石川門 二の門  桝形内部の石垣は半分が切り込みはぎ、もう半分が打ち込みはぎ の石垣で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられている。

【左上】内堀と五十間長屋  三の丸と二の丸のあいだに内堀が巡らされている。 写真奥に復元橋爪門と続櫓が見える。そこから五十間長屋がさらに続く。
復元されてまだ数年しか経っていないのでとても綺麗だ。
【右上】二の丸側より五十間長屋と菱櫓  北隅に菱櫓があり、三層の物見櫓である。名前の通り 櫓の四隅が直角ではなく、図面では約10度傾いている。それにより柱の組み方などがかなり複雑に なっており、職人の腕の見せ所か。その理由については定説がなく、 外観をよくするため、防備に都合良くするため、石垣の狂いにあわせたなどの 説がある。300円で内部をくまなく見学できる。
寛永8年(1631)の火災後、藩政の機能は本丸から二の丸に集約されていき、 元禄年間(1688〜1703)には「千畳敷の御殿」といわれるまでになったという。

【左上】三の丸より本丸方面  三の丸、二の丸、新丸は現在公園となっているが、本丸は 金沢大学付属の植物園だった為か、森林地帯になっている。
【中上】菱櫓より三の丸、石川門方面  北東方面は丘陵地帯が続いており、金沢城は平地に突き出た 丘陵先端部に位置する。百間堀によって丘陵部から断ち切っている。
【右上】菱櫓より石川門櫓

【左上・中上】二の丸 数寄屋と石垣  藩主の側室たちの居住部で二の丸南西部に一段低くなった所に位置する。切り込みはぎの 石垣には、石を切り出す時の作業分担などの為につけられた刻印が残る。
【右上】本丸入口 極楽橋  本丸は金沢御坊跡と推定されており、極楽橋の名もそれに由来すると 考えらている。

【左上】極楽橋より三十間長屋  宝暦火災(1795)の後、長く再建されず、 安政5年(1858)に再建された。武器、弾薬庫と推定される。
【右上】鉄門より三十間長屋  鉄門は本丸の正門で慶長の創建時(1600年前後) には、鉄板を貼った扉が付けられていたことから、この名前がついたといわれる。 石垣のみが残っている。

【左上】本丸戌亥櫓跡より二の丸方面  本丸の北西角、戌亥の方角にあたる。宝暦火災の後、櫓は 再建されなかった。
【中上】本丸  一番古い歴史をもった場所で、金沢御坊があったといわれる場所。 前田利家が入城後、天正14年頃(1586)本丸に天守を設けたといわれる。 天守は慶長7年(1602)に焼失し、三階櫓が建てられた。
寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。
現在は樹木が茂った山の中にいるという感じ。
【右上】丑寅櫓跡より兼六園方面  本丸の北東方向にあたる場所にあり、石川門、兼六園方面を 見渡す重要な位置である。

【左上】河北門(かほくもん)  大手口から三の丸に入る所にあり、石川門、橋爪門と共に 「金沢城三御門」とよばれた。
【中上】二の丸より新丸、大手方面  新丸も金沢大学移転後、公園となったが大手門の石垣以外は 面影は残っていない。
【右上】大手門(尾坂門)  天正期に高山右近の指導により、西丁口にあった大手を 尾坂口に移したと伝える。
櫓台が残っているが、櫓や櫓門ではなく、木戸が設けられていたといわれる。

【左上】本丸辰巳櫓下  城南端部にあたり、本丸の南東方向角になる。 東面の「百間堀」と南面の「いもり堀」が向かいあう位置から見た本丸方面。
【右上】前田利家像  大手門から石川門にかけてあった「白鳥堀」跡に建っている。


〜尾山神社〜

金沢城の西下にあり、前田利家と正室おまつの方を祭神として、明治6年に歴代藩主の別邸で あった金谷御殿跡に建立された。


【左】神門
西洋の建築様式を取り入れ、明治8年に建てられた。

【右】東神門
この門は金沢城二の丸にあった唐門を移したもの。現在は神社東側の門。

【左上】神殿  この脇には別邸時代の面影を残す神苑(庭園)が残る。
【中上】神苑に引かれた導水管  犀川上流から金沢城まで導水した一部を神苑に引いてきた導水管。 三代藩主利常の時に完成したが当時は木管であった。天保15年(1844)に石の導水管に取り替え られた。
【右上】前田利家像  赤母衣隊の頃をモチーフとした像。となりには平成14年NHK大河で 「利家とまつ」が放映されたのを記念として、おまつの方の座像が建てられた。


〜前田家墓地〜


金沢城の南約4qに位置する野田山の上部に前田家の墓地がある。
前田利家の兄、利久が天正15年(1587)に野田山山頂部に埋葬されたことに始まり、 利家も遺命により慶長4年(1599)、ここに埋葬された。
それ以降藩主とその正室、家臣や町人の墓が野田山に埋葬され、多数点在する。
<場所>金沢市野田町
<行き方>県道144号野田町信号西へ
大乗寺を過ぎて約300m先 案内板を左折
<駐車場>20台
<撮影日>2004年7月


【左上】前田利家の墓  前田一族の墓は利久、利家、芳春院、利長など初期のものは 陵墓の形をとっており、石柱の墓標が立つ。しかし、ほとんどの墓は神式で鳥居の奥に塚を築き、 石柱の墓標が立つ簡素な造りになっている。
石柱はおそらく明治以降に立てられたもの。利家の陵墓がやはり一番大きい感じがする。 20m四方くらいはあるだろう。
【右上】利家夫人の墓  芳春院、名は松、または昌。元和3年(1617)71歳で金沢で没した。
利家の墓の隣りにあり、その隣りは利長と並んでいる。その下には村井又兵衛長頼の墓(五輪塔)がある。

【左上】豪姫の墓  利家四女、豊臣秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁ぐ。関ヶ原の戦い後、 秀家は八丈島に配流。豪姫は前田家にて余生を送り、寛永11年(1634)61歳で没した。
徳川幕府に配慮したのであろう、利長墓地の裏手にひっそりとある。
【中上】桃雲寺  慶長5年(1600)、二代藩主利長が利家の遺言により野田山に廟所を築き、 麓に桃雲寺を建立した。
野田町信号の南側にある。
【右上】前田利家供養塔  桃雲寺の裏手にあり、おまつの方が歳をとり、 山頂近くの利家の墓にお参りに行くことができなくなったため、麓に供養塔を建ててここにお参りしたという。



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