北条城
きたじょうじょう

《別名》 新潟県柏崎市北条



―歴史―

大江氏を祖とした越後毛利氏は、鎌倉期に刈羽郡の佐橋荘に所領を得て、地名を名字として北条(きたじょう)氏を名乗り在地領主化した。
北条城はその北条氏の居城とされるが、史料上、在城が確認できるのは安芸守輔広からで、天文2年(1533)頃の「長尾為景書状」に「北条之要害」とある。
当時、北条輔広と同族の安田景元は上条城の上条定憲(じょうじょうさだのり)に抗し、上条方の松郷与次郎らを破っている。
同23年(1554)には武田晴信(信玄)に北条高広が内通。これに対し翌年長尾景虎(上杉謙信)は前線の上条城琵琶島城に援兵を派遣した。結局、北条氏は長尾氏に降伏した。
その後、北条高広は長尾氏の信任を得て永禄5年(1562)には上野国厩橋城代となっている。
天正6年(1578)3月、上杉謙信死去後に上田長尾氏出身の景勝と、小田原北条氏出身の景虎による跡目相続争い(御館の乱)が勃発した。 厩橋城代の北条高広は景虎側につき、北条氏を含む小田原北条氏の援軍は越後樺沢城を攻略し、そこを拠点とした。高広の子、景広は同年9月頃に北条城に入り、御館にいた景虎のもとへ救援に向かった。 しかし、翌7年2月1日、景勝軍の荻田孫十郎に討たれ死去した。
北条城も同月27日に落城、北条氏の遺領は斎藤乗松丸に「北条一跡」、山崎雅楽助に「北条之内伊原分」が宛行われている。
天正12年(1584)、景勝は桐沢具繁に琵琶島在城を命じ、「北条之内」と北条城の支配を任せた。
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に桐沢具繁も同行し、北条城は廃城になったと考えられる。

【上】主郭 尾根上にある160m×15mといった長大な削平地。北側隅に石碑が建っている。

『北条城案内図(現地案内板)』

【左上】主郭南側 北条氏の菩提寺である専称寺から北に伸びる尾根上に郭が続いている。 主郭の北側には尾根を断ち切る大規模な堀切が3条確認できる。
【右上】主郭から北西方面の眺め 柏崎市街地、日本海が見える。 


【左】伝毛利時元の墓
時元は北条初代城主とされる。専称寺の裏手、北条城の登り口にある。 中央の墓碑は後世のものだが、左右にはかなり古いと思われる宝篋印塔の一部分が残っている。


―感想―

今回は、時間の都合でサッと登城してきただけに終わったが、各郭の間には大規模な堀切、南端部には畝状竪堀があり、 見ごたえのある城だった。また、麓の集落内には「四日町」「七日町」「十日市」といった町・市の地名が残り、城下町が広がっていたことが予測される。

行き方 国道291号から、信越本線北条駅前を専称寺方面に入る。専称寺前を道なりに西側へ進み林道へ入る(案内図参照)。
駐車場林道脇に路駐
撮影日2010年9月
更新日2013年11月13日
参考文献 ・『日本城郭大系』7巻
・『日本歴史地名大系』新潟県
・西澤睦郎「謙信と越後の領主」(池享・矢田俊文編『定本 上杉謙信』、高志書院、2000年)
・鳴海忠夫「越後毛利氏の城館跡―山城の縄張りを中心として―」(『北陸の中世城郭』12、北陸城郭研究会、2002年)  
参考サイト埋もれた古城