長篠城

ながしのじょう




この城は豊川と宇連川の合流地点の半島状の地形に築かれた城である。菅沼氏が永正5年(1508) に築城し、一時は武田方についた。徳川家康が天正元年(1573)に長篠城を攻略すると、奥平氏が城将になった。
そして天正3年に武田勝頼の来攻を受け、 長篠城の攻防から設楽原の戦いに広がっていく。
合戦後、城主奥平信昌は郷ヶ原(新城市)に城を築いて移り、長篠城は廃城となった。
現在は国道、鉄道が城内を分断、宅地化などで遺構は本丸と土塁、内堀、弾正郭の土塁、外堀の一部が残るのみである。

【左】長篠城南西の牛淵橋からの眺め  一番手前が野牛郭の先端部分  左からは豊川(寒狭川)、 右からは宇連川(三輪川・大野川)が合流する河岸段丘の標高約60m地点にある。


 
<場所>愛知県南設楽郡鳳来町長篠
<行き方>国道151号脇 長篠城駅入り口
<駐車場>専用駐車場20台
<撮影日>2003年6月、2004年2月



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【左上】本丸  この外側(二の丸跡)に資料館があり、長篠城にまつわる歴史が詳しくわかるようになっている。
【右上】内堀  現在この内堀と本丸土塁が良い状態で残っている。

【左上】本丸と弾正郭を仕切る矢沢川  豊川に流れ込む手前で深い谷を形成する。そこが本丸と弾正郭 を分ける天然の堀の役目をしている。
【右上】弾正郭虎口部分  中は現在民家のようであり、弾正郭の石垣は後世のものと思われる。

【左上】弾正郭西側の土塁  土塁は北側から西側にかけて残っており、3〜4mの高さはある大きなものである。
【右上】弾正郭北側部分  土塁の前面は堀跡と思われ、ちょうど外堀が通っていた位置である。

【左上】野牛郭  飯田線を越えた所が野牛郭で本丸より1〜2m程低くなる。
【右上】殿井戸  野牛郭にある井戸で現在も湧き水がある。

【左上・右上】櫓跡とその眺め  野牛郭の先端を下っていくと豊川と宇連川の合流地点になる。 そこに櫓跡があり、南方面を見ると一番上の写真を撮った牛淵橋が見える。

【左上・中上】家老屋敷跡  弾正郭の北側になる。この付近に家老屋敷があった。現在は 民家が建ち並んでおり、碑が立っているだけである。
【右上】大手門跡  長篠城の外郭はかなり大きく、本丸の北西方向約150m先、国道151号を渡って、 コンビニ駐車場の奥に碑が立っている。

【左上】瓢郭(ふくべくるわ)跡  本丸の北東方向にあり、搦手門から入った郭になる。 ここも碑が立つのみで遺構はない。
【中上】搦手門跡  瓢郭跡の碑からさらに100m程北東に行くと搦手門跡の碑がある。すぐ 外側に沢があり、ここが城域の境となっていたのであろう。
【右上】渡し跡  ここは城域外であるが、家老屋敷からさらに奥へ進み、「馬場信房殿戦忠死の 碑」を豊川へ降りていった所。



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