根知城 (根小屋城・上城山城・栗山城)
ねちじょう (ねごやじょう・かみじょうやまじょう・くりやまじょう)

《別名》  新潟県糸魚川市根小屋


―史料からみた根知城―

★★★上杉謙信時代★★★
永禄11年(1568)3月、甲斐武田氏と通じた揚北の本庄繁長が本拠村上で挙兵した。同年8月中旬、謙信のもとへ武田勢が長沼城へ在陣したと、飯山城から連絡が入った。謙信はその動きに対処するため、関山・飯山へ有力武将を配置し、根知城不動山城へも「旗本の者共」を多数遣わした(北海道・柿崎氏所蔵〈『上』613〉)。その後10月に入ると謙信自身が村上へ出陣した。
この永禄11年8月の史料が根知城の初出である。

永禄12年(1569)8月23日、越中へ出馬していた謙信は、留守居の直江景綱・本庄宗緩両名へ宛てて書状を送っている。その中で、根知口から信州へ通行している者たちを厳しく取り締まり、地下人から証人(人質)をとって通行を遮断するよう命じている(「謙信公御書集」3〈『上』799〉)

元亀3年(1572)9月10日、謙信はこの時も越中に在陣中だったが、後藤勝元・栗林次郎左衛門尉・本庄清七郎3名へ書状を送った。謙信は、上野国に在陣していた北条・武田両軍が撤退したとの知らせを根知から受けたため、上野方面を守っていた上田衆を越中へ呼び寄せ、その控えとして後藤が指揮していた栃尾衆の一部も根知へ派遣するように命じている(東大史料編纂所所蔵「栗林文書」〈『上』1117〉)
その8日後、謙信は山吉豊守・河田吉久・北条高定・山崎秀仙・長尾顕景(景勝)へ書状を送り、根知へは黒瀧衆、不動山へは庄田越中守を遣わすよう指示を出している(上杉家文書〈『上』1122〉)
根知城は越中方面出陣の際、重要な中継基地となっていた。

天正5年(1577)9月以前、武田勝頼は小谷筋から越後境へ偵察隊を派遣していた。その際の功績を賞して、9月5日に仁科盛信から安曇郡の小領主である等々力次右衛門尉・細野甚四郎の両名に宛てて感状が発給された(小谷村・細野家文書〈『戦武』2863〉)
両名が偵察した主要な城には根知城が入っていたであろう。

★★★武田勝頼時代★★★
天正6年(1578)6月21日、武田氏は桃井綱千代へ宛てて朱印状を発給した(内閣文庫所蔵「新編会津風土記」95〈『戦武』2990〉)。その内容は「綱千代の亡父の忠儀により、武田信玄の直判で渡された本領と現在の知行地は、「西浜」(糸魚川地域)が武田領になった際には間違いなく綱千代のものとなる。ただし、根知城主である赤見小六郎・吉江丹波守が武田方に寝返った場合、彼等が知行している地については、代替の地によってこれを補うということ、勝頼の仰せである」というものであった。
武田氏は当時根知城主だった赤見・吉江両氏を調略し、寝返らせることに成功したのである。
同年9月9日付で、勝頼は赤見小六郎に対して、その忠節を賞し900貫文を宛行っている(石井進氏所蔵「武田古案」〈『戦武』4281〉)
しかし、「御館の乱」の最中であった上杉景勝は、この動きを察知していなかったらしく、同年6月22日付の赤見・吉江両氏宛ての書状で、戦況を報告して、根知城の普請・用心を油断なく行うよう命じている(長野県立歴史館所蔵〈『上』1554〉)

その後も武田領となった根知城には赤見・吉江両氏が在城していたようで、天正7年(1579)と推定される11月18日付、仁科盛信宛て武田勝頼書状の中では、赤見・吉江両人に対して懇切に疎略のないよう指示している(石川県・本誓寺所蔵〈『戦武』3199〉)
さらに、翌天正8年3月6日には勝頼から吉江民部少輔・赤見伊勢守に新たな知行を宛行っている(米沢市・吉江家所蔵〈『戦武』3268)・(石井進氏所蔵「武田古案」〈『戦武』3269〉)。その土地は「御館の乱」後に武田領となった飯山の地のなかから出されていた。

同年8月11日、仁科盛信は等々力次右衛門尉に宛てた書状の中で、真々部尾張守の同心・被官を根知城から帰還させたので、長生寺(渋田見盛種)を根知へ行かせることを指示している(穂高町・等々力家所蔵〈『戦武』3400〉)
つまり、根知城には赤見・吉江両氏のほかに、仁科一族や安曇郡の小領主たちが交代で在番していたことがわかる。

同年12月14日、上杉景勝が勝頼へ条目を送っている(上杉家文書〈『新』281〉)。その端裏書には、長井丹波守が越後へ派遣された時の条目の写しと書かれているのだが、内容には「根知之事」とだけ書かれた条文がある。
おそらく根知城や不動山城に関して、武田方による使用が認められた可能性が高い。

武田氏滅亡直前である天正10年(1582)3月2日、武田氏家臣八重森家昌が越後に在留していた長井昌秀へ宛てた書状(上杉家文書〈『戦武』3670〉)の中で、根知から帰ってきたこと、「惣佑殿」へ城を渡したこと、本来は昨日(春日山に)到着予定だったが、赤見・吉江の女子供が留まる場所が無かったため、時間がかかってしまったことなどを報告している。
したがって、根知城は武田氏滅亡直前まで武田方のものだったことが確認できる。

★★★上杉景勝時代★★★
武田氏滅亡後景勝は根知城へ西方房家を配したようで(「歴代古案」12〈『上』2760〉)、4月29日付、西方宛ての直江兼続書状では、「西方の在所から敵地への往復ができないように、通行を遮断せよとのこと、景勝からの御命令である」と書かれている。

同年6月7日、景勝から長尾市右衛門尉宛てに根知在城の命令が下され、「吉江分」を長尾に預け置くとされている。吉江とは謙信期から勝頼期における根知城将であった吉江民部少輔を指すものと考えられる。
さらに、景勝は同日付で、楠川出雲守将綱に対して、府内(春日山)―根知間の関所の通行手形(過所)を発給している(「景勝公御書」9〈『上』2390〉)

西方・楠川両氏は景勝から小谷筋の領主たちの調略を任されていた。
同年7月5日、両人は直江に宛てて、「小谷の者たちの人質は悉く受け取り、仁科衆は沢渡氏をはじめ、人質をこちらへ渡す様子である」といったことを報告している(上杉家文書〈『上』2443〉)
翌日、西方はその働きを景勝に賞され、朱印状によって新恩として飯田・嶺岸(方ヵ)(白馬村)・千国(小谷村)合計600貫文の知行を宛行われている(「歴代古案」12〈『上』2446〉)

しかし、同年後半になると、南から小笠原貞慶の軍勢が小谷筋へ侵攻し、優勢に戦いを進めていた千国城黒川館平倉城のページ参照)
天正11年(1583)2月には、小笠原氏が小谷筋をほぼ手中に収めたようで、「両郡(安曇・筑摩)の仕置は、だいたい思い通りになった」と貞慶は家臣の犬飼氏に宛てた書状の中で言っている(「御書集」(笠系大成附録)〈『大町』184〉)

同年9月23日、景勝は西方に対して朱印状を発給しているが、その中で「去年以来、根知に在城して堅固に守り、その上、敵地の城まで出陣して働いたことは神妙の至りである。したがって、仁科一跡を西方へ出置く」と記し、西方の働きを賞している(「上杉定勝古案集」〈『上』2845〉)

文禄3年(1594)における上杉家の分限帳である「文禄三年定納員数目録」では、「根知衆」として桜井三助(吉晴)、「同心」として中條松左衛門が記されている(矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦編『上杉氏分限帳』高志書院、2008年)
天正11年以降、桜井吉晴が西方に替わって根知城将として入ったことが確認できる。

景勝が会津へ移封になった後には、堀秀治が越後へ入り、その一族堀備中守清重が根知城に来て一円を統治したが、慶長6年(1601)には破却されたようである。



★★★村上義清と根知城について★★★
地元では根知城の案内板に「村上義清終焉の地」と書かれており、それを売りとしているようである。
しかし、上記のように信頼性の高い一次史料からは、村上義清と根知城との直接的な接点は見いだせない。
そのため、信頼性は劣るが二次・三次史料からその接点を見てみると…

村上氏の本拠、長野県坂城町の満泉寺に伝わる「満泉寺過去帳」によると、天正元年(元亀四年〈1573〉)正月一日に義清が死去していることが記されている(『大日本史料』第10編13冊〈天正元年正月一日条〉〈以下も出典は同書による〉)
さらに法名として「日瀧寺殿」、戒名「紅雲正清公大禅定門」、享年73歳としている。

江戸期の軍記と思われる「更級少将村上源府君年譜」(国立公文書館内閣文庫所蔵)では、永禄5年(1562)10月、義清の息国清を上杉謙信の養子として差出し、国清は根知城に居た、とする。さらに、同8年3月に義清は国清の居る根知城に移り、同12年10月、落飾して日瀧寺を建立したことが書かれている。そして、元亀四年正月一日に根知城中において死去し、日瀧寺に葬ったという。
これが史実ならば日瀧寺は根知城の付近に建立されたはずであるが、残念ながら現存はしていない。

江戸期に諸家の系図を収集・編纂した『寛政重修諸家譜』の清和源氏村上の項では、義清の部分に、天正元年正月一日に魚沼郡赤沢城において死去したこと、日瀧寺と号したこと、満泉寺に葬ったことが記されている。

『系図纂要』清和源氏19村上の項では、義清の部分に、永禄8年3月に出国、子の国清の居る根知城へ移ったこと、元亀四年正月一日に死去したこと、享年73歳、日瀧寺と記されている。

越後の「大瀧家譜」では、義清の割書において、元亀元年正月十日越後春日山において死去し、国分寺村に葬ったとする。戒名は「日瀧寺春芳義清大禅定門」、墓は国分寺の傍にある光源寺域の中にあるとする。
現在、上越市光源寺には村上義清供養碑がある。

このほかにも後世の記録類に様々なことが書かれているが、事の真偽は定かではない。
もっとも信頼できそうな「満泉寺過去帳」に義清の名が載っているのは、元々の菩提寺であったと考えられることから不思議ではない。したがって、彼が日瀧寺を建立し、日瀧寺と称したこと、そして元亀四年正月に越後国内において死去したことは間違いなさそうである(歴史学的には「満泉寺過去帳」についても厳密な史料批判が必要ですが、とりあえずここでは…今後の課題として残しておきます)

では、一次史料には村上義清・国清父子が根知城に居たという痕跡はないのか。
永禄7年(1564)、飛騨国では武田信玄の策略によって江馬時盛が武田方となって、上杉方の三木良頼や江馬輝盛らと戦っていた。同年10月20日、上杉輝虎(謙信)から輝盛の家臣である河上式部丞に宛てた書状の中で、村上義清が詳細を伝えることを記している(富山県・窪田氏所蔵〈『上』439〉)
つまり、この時期、義清は上杉氏と江馬輝盛との間の取次役を担っていたのである。
この事は翌永禄8年2月10日付、河上式部少輔宛て村上国清書状にも書かれている(「飛州志」8〈『上』450〉)「老父(義清)の事、貴国(飛騨)の取次役を謙信から命じられました。なお、私(国清)も変わらずに心から馳走するつもりです」といった具合である。
おそらく、国清も父と同所に居たため、このような書状を送ったのであろう。春日山と時盛の居城である高原諏訪城(岐阜県飛騨市)との間を取次ぐには、当時の道路事情を勘案すると、越中―飛騨ルートを利用していたと考えられ、越後の西端に近い根知城に在城するのが自然である。「立地」のところで述べたように、謙信期には越中への中継基地になっていたことからも肯ける。

永禄12年(1969)と推定される村上義清書状では、自ら河上式部丞と連絡を取っている(岐阜県・古森氏所蔵〈『上』777〉)

したがって、永禄8年以降、村上父子は江馬輝盛との取次役として根知城に在城していた可能性が高い

『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編、『上』(文書番号)…『上越市史』別編 上杉氏文書集、『新』(文書番号)…『新潟県史』資料編、『大町』(文書番号)…『大町市史』資料編

【上】北東より根知城全景
根知城とは根小屋城・栗山城・上城山城の三城を総称したものとのこと(『大系』)。
標高525.2mの城山が上城山城であるが、そこから二つの尾根が北へ延びており、西側の尾根に根小屋城、その先端部に根小屋集落がある。また、東側尾根に栗山城、その先端部に古町・栗山の両集落がある。
つまり、根知城はU字型の尾根によって形成された巨大な城なのである。


『根知城付近地図』



―立地―
姫川と根知川が合流する場所にあり、この両河川に挟まれた地域に根知城がある。当城は信濃国への入口にあたり、中世の主要道である千国道はここから根知谷を深く南東へ入って大網峠を越え、小谷・千国方面へと続いている。越後上杉氏からみれば小谷筋を押える重要な城だったことが窺える。
また、前述した元亀3年9月10日付上杉謙信書状からも明らかなように、越中方面出陣の際には中継基地としての役割も担っていた。
しかし景勝の時代、天正11年(1583)糸魚川に「新地」が築かれたことによって(「景勝公御書」12〈『上』2672〉)・(「歴代古案」12〈『上』2729〉)・(「上杉定勝古案集」〈『上』2734・2751〉)、中継基地としての役割がそちらへ譲られたことで、規模は縮小したと考えられる。


―アクセスルート―
【左上】根小屋集落
集落内の道から一直線に南へ延びる道(立川中道〈たてかわなかみち〉)があり、そこが根小屋城への入口となる。入口と反対側に駐車場がある。

【右上】登城口
立川中道の突き当りがこの場所。石造りの立派な案内柱には「根知城跡 根小屋口」と書かれている。ここから本格的な登山が始まる。駐車場からここまで徒歩約4分。
ここから根小屋城の殿屋敷まで徒歩約15分。殿屋敷から上城山城(城山山頂)まで徒歩約50分。


―現況 (根小屋城)―

『根小屋城縄張図(主要部のみ)』


     ※根小屋城の縄張図は『糸魚川市史』1(483頁)(糸魚川市役所、1976年)が詳しい。


【左上】城域北端の堀切
上記アクセスルートで尾根まで登りきると、すでに城域に入っている。根小屋城主要部は南(左)方向だが、北(右)へ少し行くと、大きな堀切が確認できる。ここが城域の北端であろう。

【右上】小屋地区
尾根を登りきって、南方面へ向かうと広々とした空間にでる。『糸魚川市史』1の縄張図によると「小屋」と呼ばれる地区である(以後の呼称も同縄張図による)。わずかながら階段状になっており徐々に高度をあげていく。

【左上】殿屋敷 @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
小屋地区からさらに進むと殿屋敷に出る。東から北側にかけて腰巻状に石積みが確認できる。南北約45m×東西約35mの広大な郭である。

【右上】火ノ見地区 A
殿屋敷からさらに登った所が火ノ見地区である。小屋が建てられ、周囲の樹木が伐採されているため見晴らしがよい。
ここから先は尾根上に中小の郭が階段状に作られ、山腹にも同様に遺構が残る。

【左上】火ノ見地区背後の堀切 B
登山道は尾根より西側少し下を通るため、この先しばらく西側中腹の遺構群を見ながら進むこととなる。道も次第に不明瞭になっていくので、地形図・コンパスは必携となる。

【右上】根小屋城 最後の郭 C
しばらく中腹を歩き、そこから再び尾根上へとイッキに登る。すると再び広々とした空間にでる。『糸魚川市史』では「本丸」としている郭である。南北約35m×東西約27m。
実質上、殿屋敷が本丸だとすると、ここは詰城的な役割を担っていたのではないか。

【左上】根知谷の眺め D
ここまで登って来ると、樹木がなければ北側一帯が一望できる。

【右上】南側土塁 E
土塁があまり利用されていない城だが、背後にある巨大な堀切をさらに有効にするため、ここでは郭の南側に使用されている。

【左上】「本丸」背後の大堀切 F
高さ約20mはある。この先堀切が連続している。

【右上】堀切2条目 G
この先、やせ尾根上に小規模な堀切が4条確認できる。
根小屋城部分はこれで終わる。この先、尾根上を歩き続けること約40分で上城山城。途中、倒木・藪こぎなど難所あり。


―現況 (上城山城)―

『上城山城縄張図』





【左】上城山城方面
根小屋城から上城山城へ向かう途中で撮影。
遺構かどうか判断しかねるが、削平地が所々にある。
写真のピーク部が城山山頂で標高525.2m。

『糸魚川市史』では根小屋城を新城とするのに対して、上城山城を古城と位置づけている。

【左上】上城山城手前から南側の眺め
尾根が南北方向から東西方向へ向きを変え、しばらく進むと南側が開けた場所に出る。
遠くに特徴的な平倉城立山の山容がわずかに確認できる。

【右上】城域西側尾根 H
途中、堀切(らしき痕跡も含めて)が5条ある。

【左上・右上】上城山城(城山山頂) I
完全に薮化してしまっている。城の標柱も埋もれており、遺構もまったく判別し難い状況。
郭の規模は最大の所で南北約30m×東西約42m、東側に一段下がって一回り小さい削平地が続いている。


【左】日本海方面の眺め
唯一の救いがこの眺め。
根知谷から現在の糸魚川市街・日本海までが一望できる。


―現況 (栗山城)―
【左】栗山集落からみた栗山城
上城山城から東側に北方面へ延びる尾根があるが、途中から緩やかな斜面となって栗山・古町集落まで到達している。その緩やかな斜面に広がっているのが栗山城で、さらにその中心部分が「ウツグラ」と呼ばれる館跡である。
『糸魚川市史』では「内蔵(うちくら)」が転化したものと推測している。
また、同書によると、信濃葛尾城を本拠としていた村上義清が武田信玄に攻められ、上杉氏を頼って越後へ遁れてきた後、根知城に配置されたとして、地元では義清のことをウツグラサンと呼んでいたという。
さらに、この付近の地表からは100点に及ぶ中国産青磁・常滑のカメ・そのほかカワラケなどが採集されたとのことである。
【左上】県道225号から栗山集落への入口
案内板と木製の標柱(字は消えかかって読めない…)が立っている。

【右上】栗山城入口
栗山集落内へ入ってすぐ、右折して山に登って行く道がある。電柱のところに木製の標柱が立っているがやはり字は消えかかっている。

【左上】根知城 栗山口
道を登りきると民家の脇に、根小屋口と同様の標柱が立つ。
奥にみえる白山社の鳥居脇から登って行く。小さい車ならここに停めることができるが、ひと言声をかけたほうがよいだろう。
この入口のほかに、古町集落のところからも行けるようだが未確認。

【右上】「三ノ丸」
『糸魚川市史』では「三ノ丸」としている平場がある。同書が刊行された1970年代頃までは水田が広がっていた所だが、現在は鬱蒼とした杉林で、地面にはシダ類が密生している。

【左上】ウツグラ
「三ノ丸」を西へ進んでいくと段差があり、そこを登ったところがウツグラである。ここも現在は密林となってしまっているが、城域中央付近に標柱が立つ。
かなり発見しづらい場所で、入口以降、ここまで何も案内板が無いため、城歩きに慣れていない人は迷ってしまうかもしれない…

【右上】ウツグラの土塁
上城山城から緩やかに下ってきた斜面に対して、約50m続く堀と土塁によって遮断している。土塁は高さが2〜3mほどある立派なものである。

【左上】土塁外側の空堀
昔は泥田堀だったようである。

【右上】ウツグラ西側の溜池
『糸魚川市史』によると、ウツグラの西側は「二ノ丸」「見張場」などが広がっているようだが、未確認。溜池はその後にできたものか。

今回は日没時間切れのため、詳細な調査はできなかった。後日を期したい。


―感想―
根知城を詳細に現地踏査するには1日では済まないであろう。今回はざっと一通り見てきたといった感じで終わってしまった。

ただ、国道148号から県道225号に入るところに、根知城の大きな看板が掲げてあること、根知城入口に2ヶ所石造りの立派な標柱が立っていることを考えると、それ以外の案内板の少なさ、古さが際立って悪印象となって残った。
根知城がもっと整備されて歩きやすくなれば、訪れる人はかなり多くなると思うのだが…

『糸魚川市史』では、栗山城・上城山城を古城、根小屋城を新城として時代変遷を考えている。
栗山城の北麓に古町という地名が残っていることを考えると首肯できる。
武田氏が小谷筋を北上侵攻してきた永禄期に上杉氏によって本格的な普請が開始されたと考えられる。 最終形態である現在の遺構は、根知城の最盛期だった天正10〜11年、西方房家や楠川将綱が城将となった時期に整備されたものであろう。


行き方 国道148号、根知谷入口信号を県道225号に入る。
すぐに右折して旧道に入り、根小屋会館手前を勝蓮寺方面に入った突き当りが根小屋城入口。
ここから根小屋城最上部まで徒歩約35分。上城山城まで約65分。
県道から栗山集落方面へ入り、橋を渡って約100m先を右折。登りきったところが栗山城入口。
ここからウツグラまで徒歩約5分。
駐車場旧道沿い、勝蓮寺入口にあり 5台
撮影日2015年12月9日
更新日2016年3月8日
参考文献 『日本城郭大系』7
『糸魚川市史』1(糸魚川市役所、1976年)
参考サイト越後の虎」 「城郭放浪記」 「城と古戦場」 「らんまる攻城戦記