小倉城

おぐらじょう

《別名》 玉川城




小倉城の築城年代は定かではない。後北条氏に属した遠山光景の居城だったといわれる。 光景は隣村の遠山寺の開基で、位牌が安置されており、小倉の大福寺には光景の内室、 大福御前の位牌がある。
光景の父、遠山直親は兄康景が永禄7年(1564)正月、北条氏康 と安房の里見義弘が戦った鴻台の合戦で討死したため跡を継いで江戸城主となり、小倉の城は 子光景に譲ったと伝えられている。
また、最近の発掘調査では出土したかわらけ等により16世紀前〜中期の遺構とされる。
<場所>埼玉県比企郡玉川村田黒
<行き方>国道254号嵐山渓谷入口信号南へ
約2.5q先玉川CC入口看板入る
約1.5q先大福寺の裏山
<駐車場>大福寺 3台
<撮影日>2005年7月
<参考書籍>『日本城郭大系5』

【上】大福寺下より  槻川が蛇行し舌状台地を形成した部分に小倉城はある。約2.3q東には 菅谷館、 西へ2.8qの所には青山城など周辺に城が多くあるが、小倉城の周囲はより高い山に 囲まれているため、見通しが利かない。

【左上】大福寺境内  境内右手を登っていくと約15分で主郭虎口へと着く。
【中上】主郭南下の腰郭石垣  大福寺から登ってくると右側主郭直下にある。この腰郭は東側に 回り込んでいて、北東尾根の大手と思われる部分と繋がっている重要な郭。
【右上】南尾根の郭にある石垣  現在見られる石垣では一番大規模に残っている部分。中上写真の 腰郭とは反対側の左側、南尾根上の郭周囲にある。


【左】南尾根堀切  石垣の見られるのが尾根先端方向で、主郭側には堀切がある。岩盤を垂直に 削ったような感じになっている。現在高さは大したことはないが、当時はもっと深いものだったかも しれない。

【左上】北東尾根虎口  北東尾根は槻川蛇行先端部へと長く延びており、主郭から約100m先まで 段郭が続く。主郭下腰郭に入る部分だが、その手前で急坂と2回の90°屈曲によって虎口を守る。 また、写真奥の広い郭が隠し郭となっており、虎口に至るまでの間に横矢がかけられる。
【中上】主郭東虎口  両側が土塁となっているが、所々に石垣がのぞいている。内側で 発掘調査が行われており、当時は少なくとも虎口部分は石塁だった様子がわかる。
【右上】東虎口内側  石積み部分がはっきり現れている。

【左上】東虎口より主郭内部方面  低い堀状の道を約50m進むことになる。そこを抜けた所が 主郭の中心部で、大福寺からの南虎口部分と重なる。
【中上】西虎口  北側にいったん出てから主郭西の堀切中を通って、西尾根上に続く二の郭方面へ 出られる。この虎口部分も発掘調査によって階段状に石積みがあったことが確認できる。
【右上】主郭、二の郭間堀切  写真に写っているのが二の郭側。主郭側の切岸は約8mあるが、 二の郭側は低い土塁があるのみ。だが、二の郭反対側は岩盤を削ったような8m程の切岸で、そこから 南斜面へ竪堀として続いている。西側尾根方面を守る重要な部分となっている。

【左上】二の郭内部  主郭は南面土塁の規模が大きいが、二の郭では北面の土塁規模が大きい。 通路が南下を通っていることと関係しているのであろうか。
また、西面では一段高くなって、平場を形成している。
【中上】二の郭南下 門跡か  二の郭切岸と南斜面の竪堀との間、通路が狭くなった部分がある。 城域西側の虎口となる部分であろうか。
【右上】城域西端部堀切  二の郭南側を通ってきた通路はここを通って北側に出て、尾根を西へ 下ることになる。


〜感想〜
この付近一帯、高度な技術を用いて築かれた城が多いといわれるが、小倉城も非常に技巧的な 部分が多く見受けられる、見ていて飽きない城である。
ただ、歴史については謎の多い城で、北条氏の手が入っているというのが通説だが、 杉山城と同じく 発掘調査からはもう少し古い時代と思われる調査結果もでてきている。
参考にした『日本城郭大系5』では主郭、二の郭の配置を通説とは逆の見解で示しているが、 やはり虎口、切岸形状、そして比高などからすると通説通りと思われる。


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