青鳥城

おおどりじょう

《別名》 石橋城




青鳥城の築城年代については明らかではなく、平安時代末期の説もある。 永享12年(1440)の結城合戦の時に、上杉憲実が 唐子・野本に陣取ったことが記述されているので、その時には既に存在していたと考えられる。
その後文明10年(1478)には上杉定正・太田道灌等が青島に在陣した。
戦国期になると後北条氏の支配下に置かれ、 松山城の支城として機能した。最後の城主山田伊賀守 直安は松山城主上田朝直の家臣として仕えていた。
<場所>埼玉県東松山市石橋
<行き方>国道254号バイバスきじやま信号北へ
約50m先左側が主郭
<駐車場>無し 路駐
<撮影日>2005年7月
<参考書籍>『日本城郭大系5』、
『東松山市の歴史 上巻』1985年

【上】主郭南面  主郭は北、東、西を土塁、空堀で囲まれている。南面は約5mの切岸状になって いるだけである。ただ、西面の土塁が南側に延長され、やや東にカーブし、内側は坂虎口状となっている。

『青鳥城要図』



【左上】主郭南西部  虎口を登ると一段低い土地が形成されており、桝形と考えられる。
【右上】北西部より虎口方面  内部は現在耕作地となっている。土塁には折れも確認でき、 技巧的な部分が多く見受けられる。

【左上】二の郭北西部の土塁  二の郭内部は早くから開発が進み、耕作地、宅地、養豚場、ホテル街 となっている。だが、北面の土塁、空堀は破壊もあるが全体的に良く残っており、規模も大きい。
また、大手口は西隅の養豚場入り口付近と思われる。
【右上】板石塔婆  正中2年(1325)4月8日の日付が記されており、念仏衆の結集と念仏の 功徳によって、二世安楽と平和を願ったものといわれる。

【左上】「おため池」  二の郭の堀跡の一部といわれ、二の郭東側にある。 すくなくともこの部分は水堀であった可能性がある。
【右上】三の郭土塁か  おため池から東へ約100m、この付近には自然の谷が南北に通り、 それを利用しているようだ。


〜感想〜
主郭の部分は平安末期頃に造られたという説もあるが、現状の遺構は戦国期のものであろう。 西側の土塁を東側へカーブさせがら南面切岸下に回し込み、屈曲した坂虎口として、 侵入スピードを殺しながら横矢を充分かけられるようにしている。 さらに登り切った所は一段低く桝形を形成しており、かなり防御を 意識している。
また、主郭を二の郭、三の郭が北、東、西側を囲み、南面には土塁、空堀等防御施設は存在していなかったようだ。 湿地帯等防御の必要性が少なかったのであろうか。
なお、『大系』では「あおどり」となっているが、現地案内板に合わせて 当サイトでは「おおどり」とした。

見所は多いのだが、車の場合は駐車するのに苦労する・・・
主郭と板塔婆を見るのには養豚場東側、板塔婆南側のカーブ部分にスペースがある。
南の竹藪には細い道が付いているので、それを辿って南下すると主郭空堀、土塁にあたる。
また、養豚場の南側から西側へと回り込むと大手口付近に出られる。この養豚場の南側 の道はもともと「ふるさと自然の道」であったようで、西側に案内杭があるが、 現在は雑草に覆われている・・・
青鳥城案内板は関越道西側脇のホテル前に立っている。このホテル裏側も 二の郭土塁、空堀がよく見られる部分。
そして城域東側の「おため池」東側には無人の寺があり、そこに駐車できる。



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