大蔵館

おおくらやかた

《別名》 源義賢館・大蔵堀の館




大蔵館は源氏の棟梁六条判官源為義の次男、棟梁帯刀先生源義賢の館である。
久寿2年(1155)8月16日、大蔵の戦いで兄義朝の長男である甥の悪源太義平に館を襲撃されて 殺害された。
前年、為義から家督を譲られた義賢が秩父重澄の後援を得て、相模から勢力を伸ばしてきた義朝と 衝突したもので、この結果、武蔵国には義朝勢力が浸透したとされる。
義賢の次男で、当時2歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により 木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の木曽義仲である。

【左】大蔵神社南側土塁  現在は高さ2.5m程だが、県道改修以前は土塁の前に空堀が残っていた。
<場所>埼玉県比企郡嵐山町大蔵
<行き方>国道254号上唐子信号玉川村方面へ 約800m先右側大蔵神社周辺
<駐車場>大蔵神社東側に路駐
<撮影日>2005年7月
<参考書籍>『日本城郭大系5』

『大蔵館要図』



【左上】大蔵神社内部  神社南側から西側には土塁が残る。神社境内は周囲より約4m高くなっており、 主要部であったと考えられている。
【右上】館南東隅の土塁、空堀  空堀が良好に残っている唯一の場所。

【左上】館北西隅  左側道の分岐部分が北西隅で、外側には堀跡と思われる水路が通る。
【中上】北西隅より北側都幾川方面  北側を流れる都幾川に向かって土地は低く段差になっている。
【右上】館西側一帯の眺め  写真右側が大蔵神社の森で、その先北側へは民家、耕作地が続いており、 土塁、空堀は消滅しているようだ。ただ、城域は手前耕作地より土地がやや高くなっており判別できる。


〜感想〜
館の東側を鎌倉街道が南北に通っており、北には都幾川が控え、渡河点を押さえる場所に 選地したと思われる。
都幾川対岸の菅谷館などと同様、戦国期には改修し使用されていたと いわれ、現在確認できる空堀、土塁はいつ頃のものか判断しがたい。



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