大坂城

おおさかじょう




大坂城の地には元々石山御坊(大坂御坊)といわれた山科本願寺の拠点があった。
天文元年(1532)本願寺は山科本願寺が戦火で焼失したため、こちらに本山を移して防備を 強化し、大城郭と化していった。
織田信長によって天正8年(1583)石山本願寺は陥落し、信長の後を継いだ豊臣秀吉によって 天正11年、大坂城の築城が開始された。
秀吉によって築かれた大城郭も元和元年(1615)には大坂夏の陣で全焼し、 元和6年には将軍秀忠が、大坂城の大規模な修築工事を行った。
現在見られる大坂城の普請は、この江戸幕府によって造られた時のものであり、 秀吉時代の遺構、特に本丸は完全に地中に埋もれている。

<場所>大阪市中央区大阪城
<行き方>大坂府警本部またはJR森ノ宮駅を目指す
<駐車場>府警前大手門駐車場、森ノ宮駅北側公園駐車場利用(有料)
<撮影日>2004年9月

【上】大坂城天守  秀吉時代の天守をモデルに昭和6年に鉄筋コンクリート造りの模擬天守を 再建。平成9年には改修されて、外壁も塗り替えられた為、見た目はかなりきれいだ。
内部は歴史博物館として充実しており、見ごたえがある。

【左上】大坂城大手門 南側より  巨大な外堀から土橋でつながっている。
【右上】西側より  大手門とその左側にある多聞櫓、一番左側の千貫櫓はそれぞれ重文指定を受けている。 大手門、多聞櫓は嘉永元年(1848)に再建され、千貫櫓は元和6年に創建、乾櫓とともに 城内最古の建築物である。

【左上】六番櫓  南外堀に面して一番から七番まで櫓が建っていたが、現在は一番と六番が残る のみ。天保年間(1830年代)に改修を受け、今に残っている。
【中上】一番櫓  二の丸東側の玉造口から見た一番櫓。玉造口に横矢がかけられる位置にある。
【右上】乾櫓  西外堀に面して建つ。千貫櫓とともに城内最古の建築物。一番櫓、六番櫓、乾櫓と 重文指定。櫓で現存するのは以上の5つだけである。

【左上】内堀 西面南側  内堀は南面桜門土橋を挟んで東西空堀になっている。北面、東面、西面の北側は水堀。
【中上】南面の石垣  この付近の石垣の積み方は特に丁寧で、算木積みの角石の巨大さは驚きだ。
【右上】内堀 東面  東面の石垣の高さは水面から約24mあり、城内でも最高である。

【左上】桜門  豊臣時代にも本丸の正門は桜門とよばれていた。明治維新の城中大火(1868)で 焼失し、現在のものは明治20年(1887)に再建されたもの。門の両側の塀は昭和44年の 桜門修理の際に復元された。
【右上】桜門桝形の巨石  蛸石とよばれる城内第1位の巨石。およそ36畳の大きさで、推定重量 130トンという。 
【左上】天守より南方面  下には二の丸の緑地があり、その先高層ビルの辺りは豊臣時代に は三の丸だった。そして約1.8q先の惣構え堀の外側には、 大坂冬の陣において真田丸があった。
【右上】天守より東方面  東側には現在森林公園、野球場などがあり、緑地が広がっているが、 こちらも豊臣時代の城域はもっと広かったであろう。


【左】金蔵  天守の南側下にある。 天保14年(1843)に改築された。昭和35年に解体修理を受けている。重文指定。

【右】豊臣秀頼、淀殿自刃の地  本丸北側の一段低くなった所が山里丸で、そこに石碑が建っている。
現在の大坂城は豊臣時代とは異なるが、山里丸の位置は変わっていないので、山里丸で 自刃したと考えられているのであろう。

【左上】玉造口より天守  玉造口は二の丸南東側にあり、大手口と同じく土橋で外堀を渡り 桝形を形成していた。明治の城中大火で門を残して焼失し、その後、陸軍によって 門の撤去と石垣部分の変形がなされた為、現在は旧観をとどめていない。
【右上】極楽橋より天守  二の丸から本丸北側の山里丸へ内堀を渡る橋で、もともと木橋が架かっていた。 現在の橋は昭和40年に鉄筋コンクリートで復元されたもの。極楽橋という名称の由来は石山本願寺 時代まで遡ると考えられている。



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