白石城
 しろいしじょう

《別名》 益岡城・枡岡城 宮城県白石市益岡町



天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は 城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。
慶長3年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎 が大改修を行い、以後明治維新まで260年余り片倉氏の居城となった。
元和元年(1615)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が例外的に許された。
明治維新には奥羽三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれた。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなどして、 ついに明治5年(1872)7月、払い下げられ、建物や石垣などが解体され廃城となった。
〔現地解説板〕

【上】白石川対岸より  北側約1qの所を流れている。そこから見ると独立した丘陵を城域としていることがわかる。 平成7年に石垣を含む三階櫓(天守閣)、大手門など本丸の一部が復元された。


【左上】二の丸大手二の門跡  本丸東側下に位置する。この坂を下りていくと、城域東側にある三の丸、外曲輪、そして大手口から 奥州街道へと出る。
【中上】本丸北東側の石垣  明治に入って本丸の主要部にあった石垣は解体されてしまったが、この部分はわずかに残っていた ようである。野面積みの石垣が腰巻状に確認できる。
【右上】本丸北側より三階櫓  復元工事前には発掘調査を行った。天守は文政6年(1823)再建後の最晩年の構造による木造の復元櫓である。

【左上】本丸大手二の門  この付近の石垣は切り込みハギ、打ち込みハギとなっている。すべて復元であるが、天守の受付にいた係員の方によると明治期の 廃城前に図面を起こしてあったため、それに忠実に再現してあるという。
【右上】天守より本丸一の門、二の門  地形による制約の為か、かなり変形した枡形となっている。遠景は城下町を形成していた東側方面で、三の丸、 外曲輪があった。


【左上】本丸より天守  古来の建築様式に基づく、木造による復元となっており、内部も見て損は無い。
入館料大人300円(隣の歴史探訪ミュージアム2階展示室も見られる。復元模型や伝承品など見ごたえがある)
【中上】天守より本丸  本丸内部には、仙台藩主伊達家が白石城に宿泊するための「御成御殿」、政庁的役割を果たした「表御殿」、 城主片倉家の私的な居館であった「奥向御殿」の三棟の大きな建物と、それに付随する建物、庭園、茶室、井戸などが配置されていた。
【右上】天守より二の丸  本丸の西下に位置する。公園となっているが、西側には土塁と空堀が林の中に確認できる。本丸との 間にも当時は堀があったようだ。

【左上】旧二の丸大手二の門  明治7年(1874)、白石城解体の際、いったん白石駅前通りの専念寺に売却されたが、 明治20年東北本線の開通に伴い、白石市本町にある当信寺山門として移築された。
現在の山門は、二階櫓門で二階中央間の表と裏に大きな眼象窓が各一つ、二階側面には丸窓がついている。幕末、この門の二階に 太鼓を置いて、時を知らせるため、音の響きを良くする為開けた穴と伝えられる。〔二の丸大手二の門跡解説板〕
【右上】白石老人の墓
江戸時代の初め頃、白石老人と呼ばれた名前も生国も年齢も一切不明で仙人のような不思議な老人が白石の阿子島彦惣家に宿泊して いた。老人は文武百芸、何ごとにも精進し人々に尊敬されていた。また人々を呼ぶのに皆「せがれ」と自分の子供のように呼び、 百七歳で亡くなった。
角田の長泉寺の長老天鑑和尚をさえ「せがれ」と呼んでいたという。こうしたことから、この老人は滅亡した甲州武田家の名のある 武将ではなかったかと言われていた老人の墓である。(白石翁伝)
墓石には「無名実徳大徳」「天禄六癸酉二月十八日」「道心老翁墓年数不知」「卒干阿古箇嶋氏彦惣所」と刻まれている。 〔現地解説板〕
真田阿梅・真田大八の墓
白石老人の墓と並んで奥にある。
元和元年(1615)大坂夏の陣のとき大坂方の名将・真田幸村は落城と自分の最後を覚悟し、知勇兼備を見込んだ敵将片倉重長 に阿梅と穴山小助の娘の養育を託した。
重長は幸村の遺児、阿梅・阿菖蒲・おかね・大八たちを白石城二の丸で秘かに養育し、阿梅は重長の後妻に、阿菖蒲は田村定広の 妻に、おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名のり伊達家に召抱えられた。
阿梅と大八守信の墓はこの当信寺に阿菖蒲の墓は蔵本勝坂の田村家墓地にある。片倉重長は、真田幸村夫妻の菩提を弔うため大平森 合に月心院を建立した。
〔現地解説板〕


【左】旧白石城 厩口門  現在は延命寺の山門となっている。
三間一戸、二階建瓦葺。もと厩曲輪(神明社一の鳥居付近)に建っていたもので、高さは少し低くなっている。〔現地解説板〕

〜感想〜
天守の受付にいた係員の方によると野面積みの石垣は、穴太(あのう)積みの技術を持つ滋賀県の職人さんに依頼して積んだという。 自然石を積む技術を持つ人は現在あまりいないとのこと。天守もかなり忠実に復元したようで、なかなか本格的だ。
白石老人の話を初めて記したのは『東藩野乗』で漢文体の「白石翁伝」という物語だった。白石地方に流布していた話であろうが、 これから広く世間にしられるようになった。阿子島家の墓地が当信寺にあり、そこに白石翁の墓がある。阿子島家伝来の「白石翁 伝」は和紙9枚綴の漢文体で、『東藩野乗』の文とは若干異なるという。〔『白石市史』〕



行き方 国道4号より白石市役所方面へ曲がってすぐ
駐車場益岡公園西側に大駐車場
撮影日2006年9月
更新日2006年10月28日
参考文献 『日本城郭大系』3
白石市編さん委員編『白石市史』T 通史編  白石市 1979年
白石市編さん委員編『白石市史』3の(2)特別史(下)の1  白石市 1984年 
参考サイト白石城