菅谷館

すがややかた

《別名》 菅谷城、重忠館




菅谷館の築城年代は不明であるが、鎌倉時代に畠山重忠の居館であったことは『吾妻鏡』によって知られる。 畠山氏は板東八平氏の秩父氏の出身で、重忠は源頼朝の挙兵時には平氏方についたが、父重能にさとされ、 頼朝に仕えるようになる。
その後、頼朝の信任を得て側近の一人として活躍するが、北条氏の謀略によって謀殺される。
重忠の死後、菅谷館が登場するのは長享年間(1487〜89)に、山内、扇谷の両上杉家の争いの 中で、太田資康が居住していた時である。
しかし、現在の菅谷館の姿は後北条氏によるものであり、史料には現れないが戦国期には 後北条氏の城として機能していたことが窺える。
【上】城域南側 都幾川対岸より  菅谷館は都幾川に面した段丘上にあり、城の東西には浸食谷が 入り込んでいるため、天然の要害を利用した巨大な「城」である。
<場所>埼玉県比企郡嵐山町菅谷
<行き方>国道254号バイバス 埼玉県立歴史資料館へ
<駐車場>資料館駐車場 30台
<撮影日>2005年7月
<参考書籍>『日本城郭大系5』『戦国の堅城』

『菅谷館案内図』



【左上】西の郭と三の郭間空堀  この付近は発掘調査が行われた所。空堀は北方外側の方が高く、 階段状に下がってくる。土塁も階段状になっている。
【右上】三の郭虎口@  西の郭から三の郭内部を見通せないように蔀土塁が築かれている。現在西の郭からは 復元木橋が架かっているが、当時の橋脚の石積みが発掘調査で確認されている。もうひとつ 虎口Aが北側にあり、堀を渡る石敷きの道となっていたという。

【左上】二の郭虎口前の堀  この付近は水がわき出ているようで水堀となっている。虎口前は 複雑な折れがあり、三の郭へと馬出状になっている。
【中上】二の郭虎口  両側は高い土塁があり、東側には畠山重忠像がある。
【右上】本郭虎口前の空堀  空堀、土塁は巨大で折れもある。現在の虎口は後世につくられたもの のようである。当時は本郭東隅の「生門」から空堀の底部を通って二の郭東側へ出たという説が有力。

【左上】本郭  東西約150m、南北約60mの広さがある。畠山氏が居城としていたのはこの部分 といわれ、発掘調査、築城法などにより後北条氏時代に改修、拡大されたと考えられている。
【中上】南郭  本郭は二の郭と南郭によって囲まれている。南郭は都幾川へ面して一段低い所に 位置している。南西部には都幾川へ下りる水の手口と考えられている場所がある。
【右上】東側外堀  自然の谷を利用した泥田堀が周囲を囲んでいたといわれ、東側に遺構がよく残っている。


【左】鎌倉街道
城の西側に鎌倉街道筋が残っている。古代の官道と重なる上の道の路線で、 鳩山村から笛吹峠、将軍沢、大蔵、菅谷を経て、志賀から奈良梨へと続く。しかし、大蔵から都幾川の 渡河地点が明らかでなく、幾筋かの枝道もあったようである。


〜感想〜
巨大で折れを伴った土塁、空堀、そして虎口部分の巧妙な造りは、明らかに戦国期、北条氏に よるものと思われる。特に二の郭虎口部分の馬出状の造りは興味深い。
また、菅谷館の周囲には後北条氏の手が入ったと思われる城がいくつかあるが、 鎌倉街道筋の対上杉氏の最前線にあった地域のためであるといわれる。
菅谷館は発掘調査も進んでおり、三の郭内にある歴史資料館で成果を見ることができる。


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