宇津城
 うつじょう

京都府京都市右京区京北下宇津町


―史料からみた宇津城・宇津氏―

「北桑田郡鶴岡村市原氏所蔵」の「土岐一流一原氏本伝」によると、岐阜県岐阜市長森城主土岐氏の末子が高雄山神護寺の僧坊に入り、成長した後に頼顕と名乗って、宇津郷に下向、宇津頼夏・頼高・頼重の3代にわたって山国・弓削・細川・世木荘へと勢力を広めたとしている。
しかし、このことを裏付ける同時代史料を見出すことはできない。

信頼できる宇津氏の初見史料は、文亀3年(1503)3月、「出雲社領住人智洪上申支証注文」の支証中に「内藤蔵人殿宇津備中方へ御奉書案文」という記載がみえる。

永正8年(1511)7月、将軍義尹(義稙)・細川高国・大内義興らと細川澄元が戦った船岡山合戦に先立つ、摂津灘(鷹尾)城への援軍のなかに「宇都二郎左衛門尉元朝」がみえる(「瓦林正頼記」『大日本史料』)。これは丹波国守護細川高国の被官としての活動であろう。
「実隆公記」同年8月16日条には「室町殿が丹波に退却し、細川・大内・畠山修理大夫・吉良以下、多くの者が供奉した。後に聞いたところによると、丹波国宇津というところにいらっしゃるということである」と記され、合戦に敗北した将軍義尹・細川高国は宇津に下向したことが確認できる。

「後奈良院宸記」の天文4年(1535)11月21日条には、宇津氏が禁裏御料所小野山(京都市北区)に関所を立て、禁裏料所山国荘(京都市右京区)の年貢を横領したとある。

天文11年(1542)には波多野秀忠・三好政長が宇津城を攻めてたが落城させることはできなかった(「親俊日記」4月20日条)。

天文18年(1549)、細川晴元・三好政長と三好長慶が対立し、長慶は細川高国の養子氏綱を奉じ、丹波では内藤備前守国貞が長慶方についた。宇津氏は波多野氏の影響下に入りつつ、基本的に細川晴元方として活動していた。
その後、天文21年(1552)8月には、細川晴元が宇津に移り、晴元方の拠点となっている。

永禄4年(1561)、三好長慶・内藤宗勝に対し、朝廷から山国荘回復命令が出されている(「御湯殿上日記」2月24日・25日条)。同年5月、晴元は長慶に降伏し、摂津普門寺に籠居しているが、宇津氏ら晴元方の残党は反抗を続けていた。

そして永禄11年(1568)、織田信長が上洛すると、京都周辺を支配していた三好三人衆は駆逐され、翌12年、信長は山国荘、同枝郷所々、小野、細川に対する違乱を停止するよう、宇津右近大夫に対して自重を求めている(『織田信長文書の研究』上165、166)
天正元年(1573)、将軍義昭が信長によって京から追放された後も、宇津氏は義昭側についていた。丹波国は反信長同盟軍の最前線となり、宇津氏はその矢面に立つこととなった。
天正7年(1579)7月19日、明智光秀が丹波へ出陣したところ、宇津は城を明けて退却したので、光秀は兵を出して追討、多数を討ち取り、頸を安土へ進上したという(「信長公記」)。


【上】城域南側からみた宇津城   南側麓には八幡神社がある。

―立地―

宇津地域は大堰川(桂川)が東から西へ流れる両岸に開けた土地をもつ、山間部に位置する。 宇津城は大堰川の右岸に広がる丘陵上に位置し、南に張り出した舌状尾根の先端、丘陵頂部を城域とする。東西の谷には沢が流れ、急斜面を形成している天然の要害地である。
大堰川の約8q上流には、明智光秀が築城したとされる周山城があり、さらにその上流部は禁裏領であった山国荘が広がる地域だった。

―現況―

【左上】城域北側の堀切
丘陵上のやせ尾根を南端方面に行くと、この堀切に出くわす。これを越えた南側が城域となる。

【右上】三の郭
堀切の南側に位置する。郭西辺の一部(二の郭寄り)に土塁が確認できる。

【左上】二の郭
三の郭東側から通路が接続している。写真奥の切岸の奥が主郭。

【右上】主郭
東側に二の郭からの通路が接続し、南側にも腰郭へと接続する虎口が確認できる。どちらの通路も石積みによって法面を補強している。

【左上】二の郭から主郭への通路にみえる石積み
全体的に石積みの崩落が激しいが、この部分は良好に残っている。

【右上】主郭南下腰郭
主郭の南側から東側一帯を腰郭が取り巻いている。

【左上】主郭南側虎口部分の石積み
崩落が激しいが、主郭南側から腰郭へと接続する虎口の存在が想定できる。

【右上】宇津城下から宇津嶽山城方面
京北町宇津から日吉町世木へと通じる道。写真左側の山頂が宇津嶽山城。その右下鞍部が人尾峠。

【左】今回の登城口
道がついていないので、どこから登ってもよいのであろうが…。「粟生谷」バス停から東側谷筋の林道を登って行き、沢を西側へ越える橋を渡った所で尾根上を目指した。近くに高圧線鉄塔用の保守道が付いているとの情報もあるが未確認。橋から尾根上まで約20分。

―感想―
尾根先端部に3つの郭を並べた小じんまりとした城だが、主郭の虎口部分には石積みが確認できた。崩落が激しかったが、かなりの普請が行なわれたことは想定できる。
そのため、『北桑田郡誌』では「宇都氏の故地悉く光秀に帰するや、光秀はその城について大改修を加へ、又別に周山城を築造せり」として、明智光秀による大改修があったことを指摘し、それをうけて『大系』でも「縄張りの特異な形態や石積みなどは光秀の修築によるもの」としている。
しかし、光秀が宇津城を改修する必然性がわからないし、石積み以外は特異な形態が何を指すのか不明な点が多い。
また、将軍が宇津へ拠点を置いたことが史料上から確認できるが、宇津城を見た感じでは、そのような特別感は無かった。



行き方 府道364号、粟生谷(おうだん)バス停の所を北へ入る(宇津城東側の谷)。約500m先、沢を渡った所。
駐車場沢を渡る橋の約150m手前に駐車スペースあり
撮影日2015年11月20日
更新日2015年11月29日
参考文献 『日本城郭大系』11
『京都府中世城館跡調査報告書』第2冊―丹波編―(京都府教育委員会、2013年)
柴崎啓太「宇津氏の動向と鳥居家文書」(坂田聡編『禁裏領山国荘』高志書院、2009年)
参考サイト城郭放浪記