穴山氏館

あなやましやかた

《別名》 下山城




穴山氏がここに館を構える以前、ここは下山氏の居館であった。下山氏は甲斐源氏加賀美遠光の長男 秋山光朝の子光重が建仁年間(1201〜04)に下山に来住したことにはじまる。
それより早く遠光の三男で頼朝に従って石橋山に平家と戦った光行が 南部領主となった。 その後の下山氏の系譜については定かではない。
穴山氏は14世紀中頃、武田信武の五男義武が逸見郷の穴山の地(現在の韮崎市穴山町)に封を受けたことに よって興り、15世紀前半には奥州に移っていった南部氏の旧領の河内地方(現在の南巨摩、西八代郡一帯) に進出していく。しかし、下山に館を構えるようになったのが、いつ頃かは明らかではない。
信友、信君(梅雪)の代になると武田親族衆として活躍し、天正3年(1575)信君は駿河 江尻城主となり、 下山は留守所となる。
その後、天正10年6月、本能寺の変の直後に信君が不慮の死を遂げ、同15年、その子勝千代も 夭折し穴山家は断絶し、穴山領は徳川氏の支配下となり、下山の館もその役割を終えたと思われる。

【左】下山城石碑  本国寺に立っており館は本国寺周辺といわれる。周辺は学校、宅地となっており、 遺構は確認できない。
<場所>南巨摩郡身延町下山
<行き方>国道52号身延北小学校の北側を入ると本国寺
<駐車場>本国寺駐車場 10台以上
<撮影日>2006年1月
<参考文献>『日本城郭大系』8
『身延町誌』1996年


【左上】本国寺  建治3年(1277)下山兵庫介光基の開基と伝えられる。
【右上】本国寺より富士川方面  館周辺には城下町が形成され、多くの寺社を創設したという。 200m程西方には信君が亡くなった母(信玄の姉)の菩提寺として創建した 南松院がある。


〜感想〜
東側前面に富士川が流れ、北、西、東の三方は山に囲まれている地である。
穴山氏が下山の地に館を構えたのは武田宗家と結びつきを深めた信友の代ではないかといわれる。 信友は信虎の娘(信玄の姉)を正妻に迎えたことにより、河内領の支配が安定してきたことを確信し、 南部からここに移ったという。穴山氏が河内地方を安定させるまで、容易な道ではなかったようである。


〜最恩寺〜


最恩時は穴山勝千代の墓所である。穴山信君と見性院(信玄二女)の間に生まれ、信君死後に 江尻城城主を世襲したが、病のため天正15年(1587)に15歳で没した。
当初、駿河の松源寺に埋葬されたが、母の手でこの寺に改葬された。
<場所>南巨摩郡南部町福士
<行き方>国道52号より県道801号に入り
火打石トンネル手前を北へ入る
<駐車場>無し 路駐
<撮影日>2006年1月
<参考文献>『甲斐の虎 信玄と武田一族』


【左上】仏殿  室町時代初期、応永2年(1395)に建立されたといわれ、武田氏の 寄進で、仏殿、方丈、庫裏等禅宗寺院としての伽藍を整備したが、貞亨2年(1685)7月、 火災にあい仏殿だけが残った。
【右上】勝千代の墓  小さな五輪塔が本堂裏手の墓地にある。



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