八田家御朱印屋敷
  はったけごしゅいんやしき

《別名》 八田氏屋敷 笛吹市石和町八田



八田氏は常陸国の守護八田氏の末裔という伝承があるが定かではない。 『甲斐国志』では末木淡路守家茂(重)が初見としている。
信玄の時代、八田家重が一宮町末木の地を拝領し姓を末木に改めた。
武田氏滅亡後も 徳川家康の庇護を受け、家重の子、末木政清は八田に復姓した。 天正10年(1582)政清は家康から御朱印をもって安堵されたため、御朱印屋敷と通称されている。
政清の弟、八田新左衛門尉(土佐守)は蔵前衆として武田氏に仕えたと考えられている。
八田家の由緒書きによると、天正10年3月、織田軍の兵火により建物は全焼した。〔現地解説板〕
【上】表門  寛文元年(1661)石和代官所創設の際、代官平岡勘三郎良辰が石和陣屋の表門として建立したものを、 明治7年(1874)11月に払い下げを受けて、八田家の表門として移築した。〔現地解説板〕

【左上】屋敷東面  屋敷周囲には水路が通っている。東面水路内側には土塁らしき痕跡があるが、公園として整備されているため、きれいに植林 されている。
【右上】北面土塁  北面には土塁が確認できる。旧笛吹川が北側に流れていたため、水防堤を兼ねていたという。


【左上】屋敷内部  屋敷の規模は120×150mで変形した台形の形をしている。 現在、きれいに整備された公園となっている。その北東隅に書院がある。
【中上・右上】八田家書院  兵火により焼失した後、天正10年7月徳川家康から万力御林の材木を賜って母屋を建立し、 慶長6年(1601)都留郡富士根の材木を賜って書院を構築した。
母屋は安政6年(1859)7月の笛吹川洪水のため大破し、取り壊した。現在の書院の建築年代は特定されていないが、 17世紀後半の建築様式の特徴がある。〔現地解説板〕(県指定文化財)


〜感想〜
屋敷の建築年代については桃山時代末期の様式と別の解説板には書かれている。
また、秋山敬氏は末木氏について、戦国商人として活躍し、正重から家重、政清と伝領したとされる。 そして、八田新左衛門尉(土佐守)は家重の弟とし、正重は商人としての名跡は弟の新左衛門尉に譲ったと考察されている。 〔「戦国商人末木氏の系譜」〕
蔵前衆と在郷商人との関連では蔵前衆の一人である諏訪春芳がやはり諏訪の豪商だったという点で、年貢の輸送、換金などの面で 有利だったようである。
屋敷内部は普通の公園として整備されており見るべきものは無いが、北面部分の土塁はかなり風化しているものの、 規模が大きかったことが想像できる。


行き方国道411号遠妙寺信号と八田信号の 中間、八田書院通りを北へ入る。約500m先左側。
駐車場公園駐車場 10台
撮影日2006年6月
参考文献『日本城郭大系』8
秋山敬『武田信玄を歩く』吉川弘文館 2003年
秋山敬「戦国商人末木氏の系譜」『甲斐武田氏と国人―戦国大名成立過程の研究―』高志書院 2003年