岩崎氏館
いわさきしやかた

《別名》 立広砦 甲州市勝沼町下岩崎



〜岩崎氏〜
武田氏の祖といわれる信義の子、石禾の御厨(いさわのみくりや) (現在の笛吹市石和町)に根拠を置いていた信光が惣領職を継いだ。 岩崎氏はその子、信隆が名乗ったのにはじまる。
『甲斐国志』の引用する「生山系図」によると甲斐源氏の棟梁職を現す御旗、盾無鎧を8代にわたって相伝し、岩崎直信 の時に、武田信重に相伝したという。
長禄元年(1457)、同2年の守護武田信昌(信重の2代後)と守護代跡部景家との戦いで、岩崎氏は一門がほとんど滅んでしまった。
【上】岩崎氏館周辺 南東側より
北側は坂下川の段丘崖になっており、東西南を空堀で囲み防御としたようである。
現在、館跡には葡萄畑、民家がある。写真奥の住宅がある部分。
写真の舗装道から左側のバイパスにかけて南側空堀があった。勝沼バイパス建設の際、空堀部分の発掘調査が一部行われた。

【左上】北側より  段丘崖の上が館跡。背後の山は茶臼山で、山頂部に烽火台がある。伝承では勝沼氏の詰城といわれている。 また、写真からははずれているが、少し右側には岩崎氏の詰城といわれる蜂城がある。
【右上】西側堀跡部分  現在道が通っている部分が西側の堀跡と思われる。

【左上】北西隅の郭  段丘崖に面した隅の部分が低くなっている。『大系』では虎口に関係した施設かと推察している。
【右上】北東隅段丘面  東側の堀跡と思われる部分は細い道が南北に通っており、北側では館の段丘崖がよく見える。


〜感想〜
現在、遺構らしいものは確認できない。発掘調査では15世紀初頭の天目茶碗が出土しており、岩崎氏が滅んだと思われる 長禄2年(1458)と年代的に一致する。ただ、『大系』では選地等の理由で岩崎氏の館としては疑問が残るとしている。 北西1.2qには勝沼氏館があって、 日川の段丘崖上に位置しており、岩崎氏滅亡後の時代、これら二つが連動して 郡内方面の押さえとして機能していたことも考えられるとしている。
郡内、他国に通じる笹子口だけではなく御坂口も近いという要衝の地、 甲斐一ノ宮国分寺 などの宗教施設も近いことから、鎌倉〜戦国期まで長期にわたって使用されたとしても不思議ではない。


行き方国道20号勝沼バイパス下岩崎信号北へ入る  すぐ右側バイパスの側道に入ってすぐ
葡萄畑の前に解説板有り
駐車場無し 路駐
撮影日2006年5月
参考文献『日本城郭大系』8