小菅砦
こすげとりで

《別名》 小菅城・天神山城 北都留郡小菅村川久保



―史料からみた小菅砦と小菅氏―

小菅砦の東麓にある箭弓神社所蔵、天正5年(1577)正月の棟札銘に、社殿は文明10年(1478)12月、小菅遠江守信景・次郎三郎信久父子により創建されたと記されている。

江戸時代後期に甲斐国の地誌として編纂された「甲斐国志」によれば、「小菅遠江守信景城跡」の項で、「小菅・丹波両村の寺社は皆遠江守が建立したという記録がある」と書かれている。
小菅信景が実在したとすると、活動していた時期は武田信玄より三代前の武田信昌時代ということになる。

武田信玄の時期には、小菅五郎兵衛尉という者が山県昌景の従兄弟として「甲陽軍鑑」に登場する。それによれば五郎兵衛尉は長篠の合戦において昌景死去後、小山田氏の配下となったとする。
さらに、天正10年(1582)3月、織田軍の甲斐侵攻によって武田勝頼が自害した後、小山田信茂が織田氏から報償を得ようと都留郡より出仕してきたが、信茂のほかに武田左衛門佐・小山田八左衛門・小菅五郎兵衛の計4人が甲斐善光寺で殺されたことが同書に書かれている。

本能寺の変によって織田信長が死去した翌月、同年7月には徳川氏から「鶴川加藤跡職」を与えられた小菅次郎三郎や神内川(山梨市)ほかで知行を与えられた小菅又八の名が確認できる(「熊谷家文書」『徳川家康文書の研究』上)。

【上】小菅砦主郭
北から西側にかけて一段高くなっている。郭内部は整地されている感じではない。
南麓には「御屋敷」呼ばれる地があり、東麓の宝生寺との間の沢は「城之沢」と呼ばれている。

小菅砦縄張図(現地案内板)


【左上】城域西側の堀切
西麓の箭弓神社脇からの道を登って10分弱、城域西端部分に出る。

【右上】堀切
主郭西側の郭はこの大堀切によって二つに分かれているが、細尾根上にあるため非常に狭い。

【左上】主郭
東端部から撮影。主郭南部には「破壊ヶ所」と記された看板が立っているが、後付けされた道によって破壊された部分であろう。

【右上】腰郭
主郭を腰郭が取り巻いている。


―感想―

「甲陽軍鑑」に登場する小菅五郎兵衛尉についての記述がどの程度史実を反映したものか検討を要するが、永禄12年(1569)4月11日付、荻原豊前守宛て山県昌景書状写には、檜原城方面へ攻め入った際、敵をたくさん討取ったことに対して信玄が大変喜んでいることを伝え、北条勢が攻め入ってきたならば、小菅やそのほかの者たちと諸事相談するように指示している。
また、元亀2年(1571)4月晦日付、孕石元泰宛て山県昌景書状写にも小菅氏が登場する。そこでは東三河の城々を攻め落とした時にその証人として小菅氏の弟である源右衛門を送ったことが記されている。
したがって、少なくとも山県昌景の配下に小菅氏がいたことは間違いないであろう。

小菅砦南麓には大菩薩峠から武蔵国へ通じる道が通っている。近世「甲州街道」が整備される前、甲斐と武蔵を結ぶ交通は「本筋の直道としては大菩薩峠を越えて丹波山(後には小菅も)に出て、多摩川渓谷を下って小河内の川野・日指から檜原谷に出るものであった」という説がある(『五日市町史』)。
小菅は甲斐と武蔵の境目に位置していることから、小菅砦は交通を扼する地として重視され、小菅氏が守備していたのであろう。
単体としてみれば小規模な砦だが、武田信玄・勝頼期には北条氏に対しての備えとして、都留郡・上野原市・大月市一帯の城・砦・烽火台ネットワークのひとつとして機能していたと考えられる。



行き方 県道18号小菅役場前から丹波山村方面へ右折し約100m。箭弓神社前から徒歩約10分。
駐車場箭弓神社脇 5台
撮影日2015年5月
更新日2015年11月10日
参考文献 『日本城郭大系』8
『山梨県史』資料編7 中世4考古資料(山梨県、2004年)
守重保作編著『小菅村郷土小誌』(小菅村、1983年)
『五日市町史』(五日市町史編さん委員会編、1976年)
参考サイト土の城への衝動