栗原氏館
くりはらしやかた

山梨市下栗原



栗原氏は甲斐守護職武田信成の子、武田十郎武続(たけつぐ)が東郡栗原郷(現在の山梨市下栗原)に居館を 構え、栗原を称したことから始まる。
15世紀半ばから16世紀初頭まで、甲斐国の政治状況は不安定で、守護武田氏と守護代跡部氏との間で戦いが繰り広げられていた。 栗原氏は武田氏の親族として多くの犠牲者を出したと思われるが、守護と並ぶほどの勢力を持っていた。
永正16年(1520)に武田信虎が甲斐国内統一に乗り出し、守護所を石和から甲府に移し、家臣団も甲府へ移住させた。 しかし、栗原信友等はこれに反発し、大井・逸見(今井)氏らと共に激しく抵抗した。
だが次第に信虎によって鎮圧され、戦国大名体制は整備されていき、栗原氏も家臣団の中に組み込まれていった。
【上】栗原山大翁寺  館跡は『甲斐国志』によると現在の大翁寺境内である。また、中村の養安寺境内も館跡であると指摘している。
また、『大系』では大翁寺と隣接する妙善寺、海島寺も一町(約109m)四方の 館の地割を推定することができるため、この部分を含めて栗原氏の館跡と推定しており、そうすると相当の規模となる。

 
【左上】水路跡  大翁寺の入口に僅かに残る。館の西面にもかつては水路があったものと思われる。堀跡の痕跡か。
【右上】土塁  僅かにのこる遺構で、大翁寺の北東側、妙善寺との間に残る。樹木の中に埋もれているが、かなりの大きさの 土塁があったことがうかがえる。


【左】妙善寺北側水路
館跡の推定ラインに沿って水路がある。この先の海島寺は栗原武続の開基。


〜感想〜
特に防御意識の無い平地館であり、現在は土塁の一部が残るのみだが、規模の大きさは圧倒的だ。
栗原氏の勢力が大きかったため、一族の館がこの周囲に集まっていたのであろうか・・・
また、栗原氏の詰城が蜂城だった可能性があることについては、 岩崎氏の勢力が無くなって以降なら考えられる。



行き方国道411号上栗原信号と下栗原信号との 中間、北側に入る。大翁寺入口に解説板有り。
駐車場大翁寺 5台
撮影日2006年6月
参考文献『日本城郭大系』8
参考サイト史跡訪問