真篠砦

ましのとりで





真篠砦は天文から永禄年代(1532〜69)に築かれたといわれ、 『甲斐国志』や『南巨摩郡誌』に「武田信玄の時代の烽火場で、原大隅守が警固し、其の後真篠勇太夫 が居跡である」と記してあるが、他に史料が無く定かではない。

【左】南東下より  真篠砦は山の中腹にある真篠集落の裏山に位置する。写真やや左側の奥になる。

『真篠砦要図』


<場所>南巨摩郡南部町福士
<行き方>県道801号富栄橋西詰信号手前を真篠方面へ入る 真篠集落内Y字路
(左 向田、徳間  手前 天子岳、井出駅という標識有り)右折し、約300m左側案内板あり
<駐車場>Y字路左折し約100m先駐車スペース有り
<撮影日>2006年1月
<参考文献>『日本城郭大系』8
『山梨県史』資料編7 中世4考古学資料 2004年
『富沢町誌』上巻 2002年
<参考サイト>史跡訪問」 「飛騨の山猿大王


【左上】主郭下切岸  案内板から植林地に入って約10分で主郭。下部は植林のために新たに 削平整地された可能性があるが、上部にはかなり広い部分もある。主郭下から数段は切岸も高さ約3mはあり、 坂虎口状になっている所が2カ所確認できる。
【右上】主郭南東側 食い違い虎口  虎口外側には枡形が形成されており、かなり凝った造りとなっている。

【左上】主郭北東側 虎口  こちらは土塁の切れ目が開いて、下の腰郭に出るだけの単純なつくりである。 虎口は南西側にも有り、現在は不完全だが食い違い虎口となっていたのではないだろうか。外側には南東側と同じように 桝形を造っていたような削平地がある。 北東側は後の時代に土塁を破壊した跡かもしれない。
【右上】主郭北側 腰郭  北側はこの広大な腰郭の下から高度を下げていく。その尾根に郭が続いている。

【左上】北の曲輪  南半分は自然地形に近く傾斜地である。北側は平坦だが未整地といった感じ。
【右上】北端の堀切、土橋と馬出し  案内板には「馬出し」と書いてあるが、尾根上の削平地である。 ただ、明確に堀切られた外側に郭がある。

【左上】南の曲輪 畝状竪堀  主郭から南側に続く尾根の先端部に位置する。この畝状竪堀は 曲輪内部から既に形成されており、通常のものとは異なる。防御側も動きが自由にとれないと思われるのだが・・・
【右上】畝状竪堀 下より  現在、約30m幅の中に9条が確認でき、明確に残っているため壮観な眺めである。

【左上】旧河内路(駿州往還)  畝状竪堀の下に、この街道が通っている。現在の国道52号は 富士川沿いに崖を切り開いて通しているが、この道は砦の西側下を迂回して通している。
【右上】真篠集落  現在は国道が富士川沿いに通っているため、町外れの高台にある小さな集落だが、昔は ここを甲駿をつなぐ街道が通っていた。


〜感想〜
虎口の形態、南の曲輪に見られる畝状竪堀など戦国末期の軍事的緊張があった時代の様相である。 この砦の最終的な縄張りは勝頼の時代まで下るのではないだろうか。
砦の西側の谷を旧河内路が通っており、ここはまさしく関門となっている。
『甲斐国志』では「福士ノ城山」の項があり、『南巨摩郡誌』はそれを受けたものである。 だが、『富沢町誌』では「福士ノ城山」は 最恩寺の 裏山の「金毘羅山砦」のことではないかとしている。
史料には登場しないようだが、縄張りから見ると非常に興味深い砦である。



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