於曽屋敷
 おぞやしき

《別名》 土手内 甲州市塩山下於曽



【左】於曽屋敷内部
現在屋敷の東半分が公園として公開されている。

〜於曽氏〜
甲斐の古代において、この地に入ったのは豪族三枝氏の分流で、“三枝系於曽氏”であったといわれる。応保2年(1162) におきた熊野権現社領八代荘をめぐる国司と熊野社との争いに連座して三枝氏は弱体化した。
そこに入ってきたのが甲斐源氏の加賀美遠光の四男、五男で、於曽氏を称したという。(加賀美系於曽氏)
そして、永禄年間(1558〜70)の武田信玄の時代、於曽左京信安が板垣の名跡を継いでおり、信安・信方・信泰が於曽殿として 活躍した。
また、廣瀬家の口伝によると、うち続く戦乱により、館を焼き、一時萩原山に潜んでいたが、徳川幕府の甲斐国に対する懐柔策 に安心し、再びこの屋敷に戻った。そして旧姓於曽氏を名乗ることは遠慮し、母方の姓である廣瀬を名乗って百姓となり、 以後、屋敷内に武士たる祖先を祀り、屋敷神として今日に至った。〔現地解説板より〕


【左上】南側内土塁  屋敷は二重土塁に囲まれていたという。現在南、東、西に残る土塁は内土塁であり、北側が外土塁と 内土塁の一部が残っている。南側土塁の規模は基底幅約10m、高さ3mで、大規模なものである。
【中上】東側内土塁  南側とほぼ同じ規模だが、写真奥の北側は規模が小さくなる。
【右上】北側外土塁 外側より  北西隅からの写真。

【左上】北側内土塁  手前の黒土部分の盛り上がりが内土塁の痕跡と思われる。奥の階段が付いているところが外土塁。
【右上】西側内土塁 外側より  水路が南北に通っている。外側は宅地、公園となっているが、やや土地が高いのは 土塁の痕跡か。


〜感想〜
北側を除く外土塁は宅地などによって消滅しているが、残りの部分は非常に良い状態で規模の大きいものが見られる。
加賀美遠光四男の光径が於曽屋敷、五男の光俊は現在の塩山駅付近に屋敷(於曽館)を構えたと伝えられ、 兄弟で於曽郷を二分支配していたものと考えられる。〔『角川 日本地名大辞典』山梨県〕
『塩山市の文化財』では於曽屋敷を黒川金山衆の役宅ではないかとしており、この屋敷の周囲には金山の管理者である 金山衆が多く住居を構え、金製法の作業場があったという。
口伝でいう萩原山は大菩薩嶺の別名だが、武田信春 が最後に逃れた柳沢の堡(萩原の堡)があるといわれる柳沢峠と 同じく、黒川金山周辺地域であり、塩山地域とのつながりが深かったと思われる。


行き方国道411号於曽公園方面へ入る  於曽屋敷南側に駐車場有り
駐車場公園駐車場 10台
撮影日2006年5月
参考文献『日本城郭大系』8