勝山城・谷村城

かつやまじょう・やむらじょう

《別名》 (谷村城)谷村館、小山田氏館




天文元年(1532)小山田越中守信有は代々居住していた 中津森館が焼けたため、谷村の地に 館を移転した。信有の後、出羽守信有、左兵衛尉信茂の3代が、この谷村で郡内の支配にあたった。
小山田氏都留郡主護として、武田家の重臣として活躍したが、天正10年(1582)3月、 信茂は領国維持のため武田勝頼に離反する。しかし、織田信長により処断され、小山田氏による 郡内支配は終わる。その後、郡内支配者はめまぐるしく変わるが、谷村の地は政治の中心として 継承される。
桂川の対岸にある城山に築かれた勝山城は、文禄3年(1593)に豊臣秀吉の一族 浅野長政の家老浅野左衛門佐氏重によって築城されたといわれる。だが、それ以前にも 小山田氏による詰城があったと考えられる。
宝永元年(1740)郡内谷村藩主秋元氏が武州川越に転封した後、勝山城は廃城となり、 郡内は天領として谷村代官の支配下におかれた。

【上】勝山城と谷村城があった都留市街  都留の東側山地の尾根上から撮ったもの。
中央の山が勝山城で、その麓が谷村城。間には桂川が流れている。谷村城は桂川に面した都留市街の 西半分が城域で、東半分が城下町となっていた。
また、撮影場所の東側尾根には 谷村の烽火台がある。

〜勝山城〜


<場所>都留市川棚
<行き方>富士急行谷村町駅前から城南橋を渡り
道なりに約500m
右折した突き当たりが南口遊歩道入口
<駐車場>遊歩道入口3台
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【左】谷村城跡より勝山城
間を挟む桂川に当時「内橋」を架けて結ばれていたと伝えられ、現在も橋桁を受ける石垣と 思われる遺構が残されている。

『勝山城要図』



【左上】内堀  山裾の南側から西側にかけてを取り囲む大規模な堀である。
【中上】桂川と谷村城方面  桂川は勝山城の北側から東側を囲んでおり、天然の堀の役割を 果たしている。
【右上】川棚見張台  城域南側尾根の下部にある郭で、桂川に面して突き出しており、見通しが利く。
この尾根上に三の丸から本丸まで主要な郭が連なる。

【左上】三の丸から本丸  城域の主要部には桜の木が植えられている。お花見用なのであろうが 下草もきれいに刈ってあるため、見通しが良く郭配置がわかりやすい。
【中上】二の丸脇帯郭より東尾根  本丸から東側に延びる尾根先端に秋元氏の 時代に焔硝蔵があったといわれる。
【右上】本丸南下石垣  打ち込みはぎの石垣がわずかに確認できる。

【左上】本丸  現在東照宮が建つ本丸。ここから北、東、南に尾根が分かれている。遊歩道入口 からここまでゆっくり見ながら歩いて約20分。
【中上】本丸北下石垣  造られた時代が異なるのであろうか、こちらは野面積みの石垣である。
【右上】北尾根  この先、北尾根先端部の郭は手前に堀切があり帯郭もめぐらされている。 秋元氏時代、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用の茶の一部を ここに預け、夏の間涼しい気候の勝山城に保管しておく蔵があったと伝えられ、御茶壺蔵と呼ばれている。


【左】外堀
外堀は現在水田となっており、山裾南側の桂川から西を回って北側の桂川まで通して あったと推定される。現在南側の桂川に繋がる一部が確認できる。当時は泥田堀となっていたと 考えられている。


現在の勝山城の遺構は浅野氏の時代に普請されたものであろう。大規模な内堀、外堀や 切り込みはぎの石垣など、戦国末期の城であることがうかがえる。
だが、小山田氏の時代にも小規模ではあろうが、谷村館の詰め城があったと考えられ、約8q北方の 岩殿城は武田氏によるものとの考えが妥当と思われる。



〜谷村城〜


<場所>都留市上谷、中央
<行き方>谷村第一小学校付近
<駐車場>都留市役所駐車場利用
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』8

谷村城は現在の谷村一小付近が本丸で、北方の源生滝までの間に二の丸、三の丸があったと 考えられている。そして城下町が城から東側山裾までの間、北は都留市駅付近、南は 泰安寺、普門寺付近まで城を取り囲んでいたようだ。
【上】谷村城跡石碑  谷村一小前に建っている

【左上】陣屋跡石碑  一小東側の裁判所前に建っている
【右上】都留市街  東西を山に挟まれた狭い谷の中は天然の要害の地であり、その中に郡内を南北に結ぶ道が 通っている交通の要衝でもある。



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