上野原城

うえのはらじょう

《別名》 内城館・古郡左衛門館・はけ城




この館は初め古郡氏、のちには加藤氏の居館であったと伝えられている。
古郡氏は武蔵七党の一つ、横山氏の流れで、12世紀末に重忠が古郡氏を称したのが始まりという。 建保元年(1213)5月、和田義盛の挙兵に同調して滅亡に追い込まれ、 遺領は加藤兵衛尉に与えられた。
加藤氏は武田信玄の時代、上野原城に派遣され北条氏の押さえとして在陣した。
天正10年(1582)3月、 勝頼が天目山に向かう という知らせを受けると、加藤景忠と長男信景は 主君救援のため一族を挙げて武蔵箱根ヶ崎にさしかかった折り、北条の大軍に囲まれ、ほとんどが 戦死したともいわれる。また、一説には武田氏の滅亡に不安となり、箱根ヶ崎に落ちて行き、土地の 一揆によって滅亡したともいわれている。
【上】牧野砦 から見た上野原城  鶴川の段丘崖上に位置しており、地続きの北面には空堀を めぐらして防御としたようだ。

<場所>上野原市上野原
<行き方>県道35号中央道高架橋北側の側道を西へ約500m、 右側に稲荷神社有り
<駐車場>無し 路駐
<撮影日>2006年1月
<参考文献>『日本城郭大系』8
<参考サイト>史跡訪問」、 「城と古戦場


【左上】稲荷神社  上野原城の解説板がある。遺構は高速道建設や宅地化により消滅してしまった。
【右上】上野原城より牧野砦四方津御前山の烽火台   鶴川の対岸に位置するこの砦、烽火台からは 上野原城付近の様子が一望できる。


〜感想〜
城域は内城とよばれる主郭部分とその外側に外城という郭があったようである。
『甲斐国志』では加藤氏が滅びたあと、この地は田畑となると書かれており、19世紀初頭には既に 遺構は不明瞭になっていたようだが、武田氏時代には甲斐、相模国境に位置しているため、重要な 役割を担っていたと思われる。


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