吉田城山

よしだしろやま




吉田城山は『妙法寺記』文亀元年(1501)の条、北条早雲が甲斐国に侵入してきた時の事に 出てきており、これ以前に何らかの施設ができていたことがわかる。
さらに永正13年(1516)7月、前年に起こった武田氏と大井氏との合戦に呼応して、 駿河勢が郡内に乱入した際にも、駿河勢が籠城したとある。

<場所>富士吉田市新屋
<行き方>国道139号城山入口信号西へ入ってすぐ左側
<駐車場>無し 国道沿いの店舗駐車場借用
<撮影日>2005年11月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【上】南東側より城山  南北に細長い丘状の地で、南半分は以前ホテルが建っていたらしい。 そのため、遺構が確認できるのは北半分となる。

【左上】北側ピークの郭  周囲には帯郭が取り巻き、東側斜面にも細長い 郭が確認できる。また、東側斜面の麓には耕作地が続いているが、そこも郭跡かもしれない。
【右上】土塁のある郭  北側ピークから南へ約80m程行った所。途中には小規模な 郭、堀切が確認できる。ここは南側のピークで土塁が南側を中心に取り巻いている。 おそらくここが主郭だったのではないか。
その先南側尾根はひらけておりホテルが建っていた場所と思われる。


〜感想〜
南半分と北端部は破壊されているため、全体像はわからない。さらに『甲斐国志』では 人の居た形跡と見えず、烽火台跡でもないとしており、『大系』で「後世、耕作・植林のため、 削平された可能性も考えられる」としている。
しかし、土塁の存在やそこを中心として北側に段郭、堀切の形跡があることから、城の遺構と 思われる。
また、位置的にも東南1.2qにある忍野鐘山、 鎌倉街道を挟んで南側にある小倉山と共に、 富士吉田へ入る東南側の関門として重要な位置にある。
ただ、要害地形とは言い難く、信玄時代には使用されたとしても、烽火台としての役割が中心 だったのではないか。

城へのアクセスルートは閉ざされており、北のピーク東側麓あたりから斜面にとりついて 登って行くしかない。
ホテル跡地には野犬(わざと放してある犬か)がいたため、土塁を越えて南側には行かない方が いいかもしれない。


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