生島足島神社
 いくしまたるしまじんじゃ

長野県上田市下之郷



生島足島神社の歴史は古く、既に平安時代の「延喜式」には登場している。
戦国時代には武田氏、真田氏の信仰が厚く、江戸時代に入っても歴代上田藩主の庇護を受けてきた。
本殿内殿、摂社諏訪社本殿及び門、歌舞伎舞台が長野県宝に指定されている。
また、武田信玄は長男義信の死の2ヶ月前である永禄10(1567)年8月、 甲斐、信濃、上野の将士237名から起請文を徴し、ここに納めた。現在83通がここに残されている。

【左上・左】本殿
周囲を池で囲まれた小島に本殿が建つ。内殿はもともと外にあったが、18世紀後期から19世紀初期の 時期に覆屋としての本殿が建てられたため、屋内の内殿となった。内殿は建築様式から 天文年間(1522〜55)頃の建立と推定されている。

【左上】歌舞伎舞台  氏子の伝承によると明治元年(1868)に建設され、その後校舎、 集会所等に利用されてきた。江戸期農村歌舞伎舞台の典型的な姿をほぼ完全に伝えていることが 検証され、長野県県宝に指定された。
現在は武田氏家臣の起請文等の展示場として使用されている。
【右上】諏訪社  本殿は棟札から慶長15年(1610)に上田藩主真田信之の寄進により 再建されたことがあきらかになっている。本殿手前にある門も同時期の建築と考えられている。


237名にもおよぶ起請文には血判がおされ、熊野午王宝印の裏に書かれており、信玄に対して の忠誠を誓わせたものである。起請文は信玄の弟信廉や甥の信豊などの近親からも提出させている。
「義信事件」によって家臣団が動揺するのを防ぐ目的と、それに加えて この機会に信濃、西上野の先方衆に対しても「血縁や地縁による団結」から「甲州における寄親・寄子 制」に近い形で支配力を強化しようと試みたものと思われる。〔『定本武田信玄』〕


行き方県道65号下之郷信号北側
駐車場大駐車場有り
撮影日2005年9月
参考文献磯貝正義『定本武田信玄』新人物往来社 1987年