三増峠の戦い

みませとうげのたたかい



永禄12年(1569年)信玄は二万の軍勢を連れ、上野から関東を南下、小田原城の北条氏康を攻め、帰りは三増峠を越えて 甲斐に戻る進路を取った。
それを知った氏康は息子の氏照、氏邦ら二万の軍勢を三増峠に向かわせ、自分も準備が出来次第出陣し、挟み撃ちにする 事を計った。
信玄は自ら三増峠の麓に陣を張り、小幡信定を津久井城に向かわせ動きを牽制し、山県昌景の一隊を 韮尾根に置いた。そこに北条軍は攻めかけ激戦となったが、山県隊が後ろから挟み撃ちにしたので北条軍は総崩れとなり敗北した。 この合戦で武田軍の大将浅利信種は鉄砲に打たれ戦死した。
信玄はすぐ兵をまとめ、反畑(現相模湖町)まで引き上げて勝利を祝った。
北条氏康、氏照父子の軍勢は荻野まで来たが、すでに敗北を喫した事をしるとそのまま引き上げた。
<場所>神奈川県愛甲郡愛川町三増
<行き方>合戦場の碑→県道48号と国道412号との間に
東名厚木C.C.がある
その南に中央養鶏場があり、
その前の道沿い
<駐車場>無し(500m先の駐車場案内があり!)
<撮影日>2003年8月



志田峠
国道412号を相模湖から南下してくると、左に東京農工大付属農場がある。
そこに信号があるので左折。林道を2qくらい進むと志田峠。
最後の方は道がハードなので、行けない人は途中に清正光という寺があり、その手前に車を一台程停められるスペース有り。
そこから歩いても10分程度。
新田本によると志田峠から三増峠一帯の尾根上が戦場だが、現状の地形からするとちょっと無理。
現地の案内看板の説の方が納得いく。 山県隊がここを越えて北条軍の後ろをついたのは同じ。

旗立て松とそこからの合戦場付近の眺め
東名厚木C.C.の駐車場まで行くと、案内看板が親切にたくさん出ている。
小山を10分程登るとここに到着。信玄がここに旗を立てた伝えられている。 この高台を中心として鶴翼の陣を張り、信玄自信は麓の桶尻に陣を置いたと現地案内板に書かれている。
現在の松は二代目。

旗立て松のある小山と浅利明神、浅利墓所
浅利明神は東名厚木C.C.の駐車場から左へとゴルフ場から離れないように走っていくと、 ちょうど反対側に出たあたりにある。
浅利右馬助信種は武田の大将で、二十四将の一人でもあった。
信種は武田軍の左翼で奮戦していたが、銃弾にあたり戦死。
信玄は墓を作って供養したが、今あるのはその後の寛政元年(1789年)に村人が明神としてまつりなおしたもの。
祈願成就の際に木太刀を奉納する習わしがあるとの事。
布陣図  黒が武田軍、赤が北条軍。
図の上から右に流れているのが相模川、下が中津川。

三増峠
県道48号を愛川町から相模湖方面に行くと、峠にトンネルがある。
そのすぐ手前右側に登り口がある。歩いて10分くらい。
車は反対側の路肩に駐車。
信玄は戦に勝った後、氏康、氏照父子の軍が来ないうちにこの峠を越え、甲斐に帰って行った。
しかし、関東をぐるっと回り、季節は冬、領土が増えたわけでもなし。ということで、将兵たちはかなり 重い足取りで国へ帰って行っただろう。
信玄にとっては今回の出陣は上洛する為の北条氏への牽制であり、その目的は無事に達したのではないか。



ゆかりの地へ戻る