長篠・設楽原の戦い

ながしの・したらがはらのたたかい

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『長篠・設楽原布陣図』

〜連吾川沿い〜

5月19日、武田軍は軍議、勝頼は設楽原の敵陣攻撃を決定。
5月20日、一部を長篠城監視に残し、大部分の軍勢を設楽原へ移動させる。
5月21日、連吾川を挟んで激突。
決戦当日は今の暦で7月9日にあたり、梅雨明け頃、田植えを終えたばかりで連吾川沿いの田んぼは 、突撃する武田軍の足を阻む重要な役割をしたのであろう。連吾川自体は小さい川であるが、その周り の田が織田軍に有利に働いたと思われる。


〜「戦場考」について〜

金子藷山によって書かれた「戦場考」は設楽原に周辺に残る石碑の記録として重要な史料であり、 極めて詳細な記録である。
金子藷山は愛知県渥美郡高師の人で、天正6年(1578)〜承応2年(1653)76歳で没した。 戦いの直後の信玄塚を始め、慶長期から武田軍将士の塚や石碑が設楽原周辺各地に建てられていた。
戦後33年目の慶長12年(1607)、藷山は設楽原の戦場を訪れ、武田軍将士の跡を歩いた記録 をその7年後に「戦場考」という随筆の形でまとめた。これには26の塚の記録が掲載されており、 戦いの事には触れず、誰の墓がどこにどのようにあるのかだけを簡明に記し、事実を伝える記録としての可能性が大きい。
それら史料を元に大正3年「古戦場顕彰会」の名で43の案内石標と11の墓碑が建てられた。
その後昭和、平成に入ってからも「戦場考」を元に石碑は建てられている。
これらの石碑を詳細に載せた地図が新城市設楽原歴史資料館で売っており(500円) 私もこれを参考に今回巡って来た。


〜連吾川沿い・柳田周辺〜

この付近は内藤昌豊が陣をはり、すぐ北方に武田勝頼観戦地とされる「才の神」の丘がある。
「柳田前激戦地」があり連吾川戦線の中心部である。

【左】武田勝頼戦地本陣地
信玄台地の東に五反田川が流れ、その東に有海原台地がある。 そこに本陣は置かれた。ここから連吾川は信玄台地によってまったく見えない。
現在は清井田の国道151号と台地上の三菱電機工場との間の住宅地に案内板、石碑がある。
【右】武田諸将訣盃の跡
山県、馬場、内藤、土屋の四将が別れの水杯を交わしたという伝説が ある。この伝説は長篠城北側の
大通寺にもある。
現在は国道151号豊橋鉄道新城営業所の脇を入って行った所に案内板、石碑がある。

【左上】武田勝頼観戦地 才の神  内藤昌豊陣地の北に位置し、信玄台地の最高所である。現在は 林で見通しがきかないが、当時は連吾川沿いの戦線が一望できたであろう。
【中上】連吾川から見た才の神方面  常林寺の裏山にあたる。
【右上】左から望月甚八郎重氏、土屋備中守直規、川窪備後守詮秋の墓  常林寺裏手にあるもので平成に 「戦場考」を元にこの地に建てられた。

【左上】武田勝頼指揮の地碑  現在の山梨県大和村特産の甲斐鞍馬石で建立したもの。
【中上】内藤修理亮昌豊之碑
【右上】横田備中守綱松之墓  これら3つの碑は東郷中保育園裏手にある。

【左上】柳田前激戦地  内藤陣地から連吾川に下ってきた所。橋の向こうは織田軍陣地方面。
【中上・右上】甘利郷左衛門尉信康之碑  柳田前激戦地の石碑の道を挟んで反対側にある。

【左上・中上】土屋右衛門尉昌次戦死之地碑  馬防柵再現地の北端に石碑がある。柵に取りつき 大音声をあげて壮烈な最期をとげたといわれる。
【右上】土屋右衛門尉昌次之碑と従士温井左近昌国の碑  信玄台地の東側にある。


【左】傳五味與惣兵衛貞氏之墓
才の神の北西下にある。貞氏は最初中山砦を守備していたが、ここに墓があるのは敗走してきたとしても 場所的に疑問が・・・
ところで最初に「伝」の字があるのは五味貞氏、有海にある小山田昌晟、高坂助宣の三基である。

【左上・中上】甲田、五反田川  才の神から台地を東に下るとここに出る。ここの水田の中に古い兜が 埋もれていたとか武田家伝来の諏訪法性兜が拾われたなどの伝説がある場所。五反田川は信玄台地と有海原台地の間を 流れる。上流に遡ると真田兄弟の碑があり、そこから浅谷、出沢を通る甲州への退路であった。
【右上】堀無手右衛門之墓  五反田川の甲田橋近くにある。


〜連吾川沿い・丸山周辺〜

一番北側の戦線で、武田軍右翼馬場信房が浜田(須長)の陣地から名高田、大宮前付近で織田軍佐久間信盛軍と激しく丸山の争奪戦 を繰り広げた。丸山は小高い丘で連吾川のすぐ脇にある。ここからの見晴らしは良く、南側に 連吾川の戦線が見渡せる。

【左上・中上】大宮前激戦地付近と石碑  柳田前激戦地より400m程上流の所。
【右上】大宮前激戦地より丸山  丸山は現在削り取られてしまったのか、塚のようなものである。

【左上】丸山  ここは最初織田軍の佐久間信盛の陣地であったが、馬場信房の軍と争奪の激しい戦いの 末に馬場軍が占領した。
【中上】丸山上より連吾川下流域(南方面)  かなり遠くまで見通す事ができ、武田軍左翼の 山県陣地付近まで見える。
【右上】丸山上より勝頼観戦地才の神方面  思っていたよりも近く、勝頼自身もはっきりと 丸山の戦況は見てとれただろう。


【左】丸山上より浜田方面
もともと馬場信房が陣を張っていた所。
【右】上州沼田産矢立硯発見地
連吾川沿い丸山のすぐ下。昭和39年に堰堤工事中に発見された。 鑑定した結果硯材は上州(群馬県沼田近郊川場村)であり、この付近は真田兄弟をはじめ、多くの上州兵が戦っていた所で あるため彼らの物であった可能性が高い。


【左・右】名高田激戦地  浜田から丸山に向かう途中である。

【左上】真田兄弟の墓 五反田川沿い  馬場信房の陣があった浜田から山を東へ抜けた所にある。
【中上】真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝之碑  一つの岩に兄弟二人の名が彫ってある。
【右上】左から根津甚平是広、常田図書春清、鎌原筑前守之綱の墓  三人とも真田一族で真田兄弟の墓と 同じ場所にある。


〜連吾川沿い・竹広周辺〜

武田軍左翼山県昌景の陣地があり、連吾川対岸には徳川家康本陣がある。これより南側は 弾正山台地、信玄台地ともになくなり、豊川まで平地が広がる。


【左】竹広激戦地
連吾川に石碑が建っている。北方面の写真で左が織田・徳川軍陣地、右が武田軍陣地となる。
【右】山県昌景陣地
竹広激戦地より見たところで、この台地の中腹に山県昌景の碑などがある。


【左】山縣三郎兵衛昌景之碑
手前左端の石碑がそれである。
【右】山縣甚太郎昌次、従士名取又左衛門道忠の碑(左)と高坂又八郎助宣之墓(右)
台地の林の中に全部一列に並んでおり、ここに佇むと寂しい雰囲気だ。高坂助宣の墓は
有海にもある。

【左上】小幡上総介信貞之墓  小幡信貞は非戦死説もあり、ここは弟の昌定とも考えられている。
【中上・右上】原隼人佐昌胤之碑  台地に登ってきた所にあり、設楽原歴史資料館、信玄塚などの 南西約50mにある。


【左】岡部竹雲斎、岩手左馬助胤秀の墓
信玄台地の東側の畑の中にある。
【右】武田軍軍馬供養塔
昔、卒塔婆が4本あったらしいが、現在は2本が連吾川竹広激戦地の石碑 そばにある。



〜連吾川沿い・勝楽寺周辺〜

竹広のさらに南側、弾正山台地、信玄台地がなくなり、平坦な地が広がった所である。 連吾川はこのあたりから豊川に合流するところまで、約15m程の深い谷を刻んでいる。 その為、馬防柵はこの付近までは造られていなかった。
山県隊はここから徳川家康の本陣へ回り込もうとしたが、深い谷と大久保忠世、忠佐兄弟の軍に 阻まれた。

【左上】勝楽寺  川路城主設楽家にゆかりがある古刹。戦後、住職玄賀和尚が村人達の先頭に立って 戦没者の埋葬、供養に精魂を傾けたという。
【中上・右上】勝楽寺前激戦地  真ん中の写真は勝楽寺より豊川方面(南)、右上は激戦地石碑より 連吾川方面(西)。林の所が連吾川の谷で、その向こうが大久保兄弟陣地となる。


【左・右】傳山本勘蔵信供之墓
信供は山本勘助の子で20歳で討死した。信供は長篠城監視隊として、寒狭川沿いに 備えていたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に集結し、決戦する事を指示され竹広の山県高地に転戦した。
しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総崩れとなり、信供は単騎で徳川軍目指して斬り込み討死した。 〜現地案内板より〜
これは一つの伝説で、山本信供戦死の地として豊川の上流、
大海に石碑がある。

【左上・中上】高坂源五郎昌澄之碑  高坂昌澄は高坂弾正忠昌信の子であり、このとき25歳ながら 兵2千を率いる大将であった。長篠城監視隊長として備えていたが、勝頼本陣からの命で設楽原前線に転戦。最後は単騎で連吾川を 越え、徳川本陣めがけて斬り込んでいったがここで敗れた。
大久保本陣地のかなり内に入ったところで、かなり敵陣奥に入って行ったのだろうか。
【右上】連吾川の豊川合流点付近  川自体は小さいが深い谷になっているのがわかる。


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