塩尻峠の戦い

しおじりとうげのたたかい



天文17年(1548)7月10日、 武田晴信(信玄)と信濃守護小笠原長時との間で行われたのが塩尻峠の戦いである・・・・
この戦いの経過をおいながら、ゆかりの地を紹介していきたいと思います。

『塩尻峠付近図』


武田晴信の府中侵入
武田晴信が初めて信濃府中(松本周辺の地域)に侵入したは天文14年(1545)である。
この年の4月11日、伊那の高遠に向かって出陣。17日には 高遠城主である高遠(諏訪)頼継は 降参した。
20日には福与城に藤沢頼親を攻めた。 福与城は堅城のため陥れるのに時間がかかっていたところ、 府中小笠原長時が頼親救援のため出陣し、 竜ヶ崎城に入り武田軍の背後を脅かす。
5月22日、今川義元、北条氏康の出した援兵各300人が到着し、6月1日、板垣信方の軍が 竜ヶ崎城を陥れた。そのため、頼親も6月10日和議に応じ、11日弟を人質に提供して晴信に降服 した。
同月13日、武田軍は箕輪を発って塩尻に兵を進め、14日、15日には桔梗ヶ原に押し出して、 小笠原氏の本城、 林城の近くまで侵入し、周辺を焼き払い、17日甲府へ帰った。
このように上伊那地方は天文14年頃にはほとんど武田氏の勢力下に入り、府中へも侵入したのである。


小笠原長時の動き

●天文17年(1548)、武田晴信が 上田原の戦いにおいて村上義清に敗れると、武田の占領地 には、大きな動揺が起きた。
上田原の戦いから1ヶ月後の4月5日、小笠原長時は村上義清らと呼応して 諏訪大社下社へ攻め込み放火した。
次いで6月10日、長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち入った。しかしこの時は下社の 地下人たちに反撃され痛手を受けた。

【左】諏訪湖全景 立石公園より
写真では諏訪湖対岸、右隅付近が岡谷市街、その背後が勝弦峠、塩尻峠付近の山地。 写真下の市街地は上諏訪の市街。
塩尻峠の戦い

●7月10日、諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族矢島、花岡氏らが、長時に通じ 反旗を翻した。そのため、武田方の神長官守矢頼真や千野靱負尉(ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
●翌11日、反乱の情報が甲府に届くと、晴信はすぐに出馬した。
しかし、その後の行動は慎重で18日まで甲斐国内にとどまっていた。

【左】勝弦峠(岡谷側より)
勝弦峠は現在の国道20号塩尻峠より南西約3qの場所にある。

●同月18日、大井の森(現在の北杜市長坂町)より 上原城に入ったが、深夜ひそかにここを発ち、 翌19日早暁、塩尻峠の嶺上に小笠原軍5千余を急襲した。
小笠原軍勢は昨日まで甲斐国内にいた武田軍が、まさか来襲するとは思ってもいなかったところへ 来たため、完全に不意をつかれた状態であった。結局、小笠原軍は将兵1千余人が戦死し、長時も 逃げ帰った。武田軍は府中へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

【左】塩尻側の永井坂付近より勝弦峠方面
塩尻側は岡谷側よりなだらかな斜面で下っている。この永井坂付近は塩尻峠の戦いの場 になったという説もある。
戦いの場所について史料では、信頼性のある『高白斎記』、『妙法寺記』そして信玄の感状で、 「塩尻峠」とあるだけで、位置を示す記述は見られない。『神使御頭之日記』だけが、「勝寉(筆)」 と記している。これは現在「勝弦」であるという見解が有力である。
『神使御頭之日記』は神長官守矢氏が毎年書き継いできたもので、地元の記録でもあり、 信頼度はかなり高い。
ただ、両軍合わせて1万以上の兵力があったと思われる中、かなり広い領域に 戦域は広がったのではないか。『塩尻市誌』がいうように現在の塩尻峠から勝弦峠にかけての 稜線上で展開された戦闘であったと思われる。


●同月25日、晴信、上原城に帰陣。

【左】首塚
武田軍がここで首実検をした後、放置された遺体を柿沢の村人が埋葬した場所という。
場所は国道153号金井信号を東へ入り、下柿沢信号を右折。約500m先右側に 首塚入口の杭があるので、そこを右折し50m先農道を左折。直進約100m畑の中にある。

小笠原氏の敗因としては、信玄の作戦の巧さと同時に長時直属の旗本以外は諸豪族の寄せ集めの家臣団であり団結力が弱く、 長時の統制力や支配力が浸透していなかった点があげられる。そこに信玄が上手く つけ込み内部崩壊に導いていったと思われる。



小笠原長時の没落

●同年10月4日、晴信は村井城(小屋城) (松本市芳川小屋)の普請を開始。前進拠点とする。
●天文19年5月23日、甲斐一宮浅間神社 に願文を捧げて戦勝祈願、信濃制圧を決意。
●同年7月3日、甲府を出発、10日村井城に到着。

【左】小屋城跡
現在遺構らしい遺構は残っていない。
完全な平城で、前線基地という雰囲気は感じられないが、 ここから小笠原氏の本城である林城までは直線で約6qである。
●同月15日夕刻、林城に近い出城の一つであるイヌイの城 (埴原城か)を攻め取り、勝ち鬨の式をあげ、午後8時 頃に村井城に引き上げる。
●同日深夜、武田軍の威勢に恐れをなし、深夜に至って 大城(林城)深志(松本城)岡田(伊深城)桐原山家の5城は 戦わずして城兵が逃亡し、 島立(荒井館)浅間の2城は降参した。
長時は平瀬城に落ち、 やがて葛尾城に村上義清を頼ることになった。
●同月19日、深志城の鍬立式を行い、23日には総普請を開始し、行政の中心地と兵站基地として、 信州中央部の一大拠点となっていく。


小笠原長時のその後の動静は明らかではないが、天文22年の大晦日の夜に中塔城を落ち延び、 草間(中野市)を経て越後春日山城主長尾景虎(上杉謙信) を頼ったという説(『二木家記』)、 19年以来村上義清のもとにいたが、21年に弟 鈴岡城主小笠原信定のもとへ下り、 23年同城の落城によって没落、伊勢を経て上洛し、同祖の三好長慶をたよったという説(『溝口家記』) とがある。


武田晴信はこの戦いに勝ったことにより、上田原の戦いの敗北を挽回し、信濃守護小笠原氏という 信濃国内においての一大勢力を壊滅させた。
これで信濃制圧への見通しがようやくついてきたのではないだろうか。
「これ以後、川中島の戦いまで、晴信の戦いは攻城戦となり、 上田原、塩尻峠のような野戦の記録は もはや見られなくなる。晴信に正面きって敵対するものがいなくなったのである。」〔磯貝−1987〕


【左】現在の勝弦峠
特に碑も何もない。少し下った鳥居平やまびこ公園入口に案内板がある。

<撮影日>2005年7月(勝弦峠付近)
<参考文献>磯貝正義『定本武田信玄』新人物往来社 1987年
塩尻市編『塩尻市誌 第二巻歴史』1995年




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