諏訪大社
 すわたいしゃ

長野県諏訪市・下諏訪町


〜上社本宮〜


信濃国一之宮である諏訪大社は日本最古の神社の一つで古事記にも記されている。 諏訪大社は上社(前宮・本宮)と下社(春宮・秋宮)に分かれているが合わせて一社となる。
上社大祝諏訪氏は本宮の南東1.5qにある前宮を居館としていた。 古くから武田家の信仰があり、信玄の時代、諏訪攻略に成功してからは手厚く保護された。
信玄の軍旗である赤地に金泥で書かれた何種類かの「諏訪神号旗」は有名であり、 山梨県内の雲峰寺恵林寺 に保存されており見ることができる。

【左上・右上】上社東参道  現在は北参道がメインの様子だが、本来はこちら側がメインの参道である。 御柱もここから入ってくる。東参道から入り、上の写真の長い廊下の中を通って本宮へと行く。

【左上】上社 一之御柱  約16mの高さがあり、神社の四隅に御柱を立てる。これらの柱の中側が 神域となり、境界を表す。7年に一度、新しい御柱を山から切り出して運んで来る御柱祭りは有名である。
【右上】「めどでこ」 上社では御柱を引いて練り歩く時に、柱の前後に四本の「めどでこ」をつける。 この奉納されているめどでこは前回の祭りの木落しで使われたものである。

場所諏訪市中洲
行き方中央道諏訪インターを下りて左折、 800m先飯島信号を左折して直進約2q
駐車場大駐車場あり
撮影日2003年11月


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〜法華寺〜

【左上】法華寺山門  上社の東側裏手にある寺で、天正10年織田信長が甲州征伐の時、 この寺を本陣として滞在し、論功行賞を行った。
信長が明智光秀を愚弄して恨まれ、本能寺の変を引き起こす一因となったのはここの寺である。
〔現地案内板より〕

【右上】吉良義周の墓  「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の嗣子が義周である。
赤穂浪士による討ち入りで義周は幕府大目付より「仕方不届」として、諏訪忠虎(四代高島藩主) へお預けの身となった。高島城南の丸へ囲われたが義周への処遇は丁重であったという。 しかし、3年後の宝永3年(1706)に21歳の若さで病死してしまう。そして法華寺裏手の この場所に埋葬された。
〔現地案内板より〕


〜下社秋宮〜


下社大祝金刺氏は南北朝時代に入って、上社大祝諏訪氏と分裂、反目しあうようになる。
そのきっかけは正平10年(1355)の塩尻桔梗ヶ原の戦いからである。この戦いは諏訪氏が南朝方につき、 北朝方である松本の小笠原氏と戦ったもので、その時金刺氏は不参加であった。
応安5年(1372)、幕府は下社領の一部を取り上げ、上社の御料所とした事によって分裂は決定的になる。
その後、しばしば争いがあったが、文明15年(1483)の上社の内訌に時の下社大祝金刺興春は介入し、 上社を攻めたが、下社方は敗れ社殿も焼かれ、その後金刺氏は滅亡する。
武田信玄が諏訪を統治する時代に入り、下社は再び隆盛を誇るようになった。

【左上】秋宮幣拝殿  現在の建物は安永10年(1781)に完成したもの。
【右上】秋宮神楽殿  現在の建物は天保6年(1835)に完成。幣拝殿の前に建つ。
右端奥に一の御柱が見える。

秋宮の南側には木曽義仲の家臣であった手塚太郎光盛の居館霞ヶ城跡がある。

場所下諏訪町上久保
行き方国道20号上諏訪方面より 大社通り信号右折 約500m先正面
駐車場正面右脇に10台
撮影日2003年12月


〜下社春宮〜


場所下諏訪町大門
行き方国道20号上諏訪方面より 春宮大門信号右折
 約700m先正面
駐車場正面右手前に大駐車場
撮影日2003年12月


【左上、右上】春宮幣拝殿  秋宮幣拝殿より1年早く安永9年(1780)に完成。
春秋両宮は社殿の構造は同じで、当時は双方で技術が競われていたそうだ。



【左】春宮からの眺め
下諏訪町の一帯よりやや高台になり、諏訪湖に向かって下って行くことになる。 下社一帯は中山道の宿場町であり、温泉街もありで、上社よりもにぎやかに感じる。
秋宮のすぐ脇には金刺氏の居館跡といわれる霞ヶ城跡がある。


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