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![]() 玉緒神社は甲斐国三宮として延喜式に所載されている式内社である。 一宮、二宮と 三社で竜王三社神社まで盆地全体の水防祈願の御幸祭を斉行、後の時代の武田氏も代々祈願所として崇敬していた。 天正10年(1582)武田氏滅亡時に織田方の兵火により、社殿全てが焼失。 後、徳川氏の朱印を受け、神領は保護され慶長14年(1609)家康の命で現在の本殿と旧拝殿が造営された。〔現地解説板より〕 【左】玉緒神社 平成16年に新拝殿が竣工された。御幸祭は明治維新後中断したが、平成15年4月130余年ぶりに復活した。 〜御幸祭と武田氏〜 御幸祭の神輿の渡御は、一宮→惣社→守ノ宮(守公神・伝四宮)→二宮→三宮といった古代以来の主要な神社をほぼ包摂し、 府中を経て荒川の三社神社(上石田)へと向かっており、古代末期以来の習俗を伝えるものと思われる。 戦国大名武田氏はこのルートをさらに竜王(釜無川の氾濫原=御勅使川との合流点)へと引き伸ばす。それによって 御幸祭は中世において開発が進行し、戦国期に至っては信玄堤に 代表される武田氏による政策的水防がなされた地域の人々を統合掌握する役割を担った。 それと同時に各神社の社家衆で構成される侍衆の掌握・編成も行っていったであろう。〔平山 1999〕 戦国大名としての武田氏はこうした国規模で行われる祭祀を利用して、今まで掌握されていなかった釜無川左岸地域に介入していった。 諏訪社をはじめとして、武田氏による宗教勢力と在地との関係を利用した支配体制への組み入れのひとつの方法がここに表れている。
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