信玄堤しんげんつづみ1/2ページ周囲を山に囲まれた甲斐では治水は国を治めていくうえで、重要な課題であった。特に釜無川(かまなしがわ) の竜王は水難の絶えない地域で、西から合流する御勅使川(みだいがわ)を含めて信玄によって 総合的な治水事業が行われた。 一般的には天文11年(1542)から弘治3年(1557)かけて行われたといわれるが、 その後も工事は断続的に続けられていたようである。 後にこの治水事業の工法は、「甲州流河防法」と呼ばれ、日本各地で用いられた。 (釜無川は下流域で笛吹川と合流すると富士川と呼ばれるようだが、上流部でも富士川と 呼ばれる事もある) ![]() 〜石積み出し〜御勅使川上流部、現在の南アルプス市駒場にあり、川の右岸に石積みの堤防のような「石積み出し」 を雁行状に何本も設け、流路を北に押し上げた。「出し」とは川岸から川中へ向けて「でっぱり」を造り、流れを川中へと戻す役割をさせたもので、 それを石積みで造っていることから「石積み出し」という。 現在、一番から五番までが確認されているが、八番堤まであったことが確認されている。 各堤にはそれぞれ2本程度の「出し」が設けられて、水の勢いを徐々に緩和させ分水している。 また、最上流部にある一番堤に最も大きな石を使用しており、激流に耐えられるようになっている。
![]() ![]() 【左上】一番堤 長さ約100m、幅約15m、高さ約7m(現在地表で確認できる範囲で) ほどの石垣。これが川にむかって斜めに突き出していたのであろう。近くで見ると巨大でまるで 古代の墳墓のような感じ。これが約200m間隔で5本並んでいるのである。 【右上】一番堤 横の部分 この面が川にぶつかる部分である。現在の御勅使川は遊歩道を間に 挟んで、現代の堤防の中を流れているので、ここにぶつかる事はなく、堤上部、前部は耕作地になっている 模様。 ![]() ![]() 【左上】現在の御勅使川 二番堤の付近。昔は駒場から東の盆地へ向かって流路は定まってなく、 大扇状地を形成していた暴れ川である。 【右上】二番堤 川に沿ってある遊歩道より。川が運んできた土砂によってか 整地したことによってかはわからないが、だいぶ埋まっているようだ。 まだ下方に続いているようで、現在見えているのは上部である。 ![]() ![]() 【左上】二番堤 横の部分 一番堤から下流へ約200mの所にあり、一番から、三番までは 川沿いの遊歩道で歩いて見に行ける。手前部分が二段になっているのがわかる。 【右上】二番堤 上部 長さは約100m強あり、他の堤もだいたい同じ大きさのようである。 ![]() ![]() ![]() 【左上】三番堤 手前部分は耕作地となっているためか、だいぶ埋まっている。 【中上】三番堤 先端部 耕作地の反対側は発掘されたようで下部まで見えており、そのまま保存 されている。一番堤と三番堤は三段になって高さを出していたようである。二番堤も 埋まっているのかもしれない。 【右上】三番堤 上部 ここを歩いていくと県道20号のすぐ脇まで続いている。 ![]() 【左】四番・五番堤 ここは三番よりさらに下流に200m程いった駒場浄水場内にあり、 上部が確認できる程度。 形は一番から三番とはちがい、V字型となって四番、五番が接続している。 ![]() ![]() 【左上】四番堤 上部 浄水場の隅に上部だけ地表に見えている。 【右上】四番・五番堤 川に面した先端部で写真手前が四番、奥が五番堤。現在 その間は排水溜池となっている。 ![]() ![]() 【左上】四番・五番分岐部分 当時の石積みかどうか不明であるが、分岐部分の所以外は ほとんど草木に覆われてしまっている。 【右上】五番堤 外側部分 県道から見たところで、石積みが一番よく見える。 |