上田原の戦い

 うえだはらのたたかい

長野県上田市



武田晴信(信玄)は天文11年(1542)の諏訪侵攻以来、 度々信濃に兵を進め、諏訪・伊那・佐久地方をほぼ手中におさめた。 この先、北信地方へ進出するためには、その関門となる坂城に 本拠を構える村上氏を破ることが必要となった。
北信の雄、村上義清は佐久郡における支配を後退させ、小県郡の危機も眼前にせまったことに警戒感を強め、 太郎山、虚空蔵山城砦群を築いていた。
ここにきて、武田晴信と村上義清との衝突はもはや避けられない状況となっていたのである。

●天文17年(1548)正月18日、晴信は「信州本意においては相当の地を宛行う」という朱印状を諸士に与えて士気を 鼓舞した。
●武田軍は天文17年2月1日、雪が深く積もり、雨やみぞれの降る中を 大門峠から丸子、砂原峠を越えて、神畑(かばたけ 上田市)付近まで兵を進めた。

【左】上田原古戦場の碑  石久摩神社境内にある。
行き方国道143号上田原駅西側の信号を右折、 川辺小学校の北となり
駐車場無し 路駐


上田原の戦いについては、信玄近臣だった駒井政武(高白斎)(こうはくさい)の日記『高白斎記』、 妙法寺の僧が書き継いだといわれる年代記『妙法寺記』 があり、合戦の流れを知ることができる。

●武田軍は当初、村上氏の本拠 葛尾城の背面から襲う予定だったが、 途中村上軍が城を出て佐久へ進攻中という情報が入った。 晴信は村上軍の行く手を遮るために、倉升山に陣をしいた。
【左上】倉升山付近  【右上】倉升から上田原、須々貴城方面の眺め
倉升地区には「味方原」「兵糧山」「相図山」「鉦ヶ窪」「御陣ヶ入」「御陣ヶ原」「物見山」という地字名が残っている。 倉升山という地名は確認できなかったが、おそらくこの付近背後の山周辺のことを総称したものと思われる。
村上義清が陣をしいた須々貴城までは直線で約3.5q。

行き方県道65号沿い、上田創造館、長池周辺
駐車場上田創造館駐車場 10台以上


●対する村上義清は坂城から小県に出た所に位置する須々貴城(天白城)付近に陣をしいた。
●2月14日、両軍は上田原で激突、かなりの混戦となった。
【左上】須々貴城(板垣信方の墓より)  【右上】須々貴城より上田原の眺め
合戦場所は産川(さんかわ)、浦野川から現在の下之条にかけてのあたりを防衛線として戦ったようである。
写真中央の田んぼが広がる周辺が激戦地帯だったようで、板垣信方の墓や村上方の重臣の墓が集中している。 武田方本陣の倉升山は写真からは外れているが、右奥方向である。 (須々貴城のページ参照)


●村上方の本陣に迫った武田軍だったが、地元の利を生かした村上軍の反撃にあい、晴信の右腕ともいうべき諏訪郡代の板垣信方 (いたがきのぶかた) が戦死し、甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)、 才間河内守(さいまかわちのかみ)、初鹿野伝右衛門(はじかのでんうえもん)らの 重臣を失った。大将晴信も傷を負った。
【左上・右上】板垣信方の墓  信方は信虎・晴信父子の二代に仕えた重臣。延徳元年(1489)に生まれた。 青年信玄のよき補佐役となり、若き信玄にとっては頼りがいのある武将であったといわれる。
信方はこの戦いで下之条付近において、村上軍と戦い壮烈な討ち死を遂げた。
信方は愛煙家であったと言い伝えられ、今もこの墓を訪れる人々によりタバコが墓に供えられている。
〔現地解説板より〕

行き方県道77号下之条バス停付近 を北へ入る(案内板有り) 若宮八幡宮の西側約100m
駐車場無し 路駐


●村上軍も屋代源吾、小島権兵衛、雨宮行部などの重臣が、この戦いで戦死したとつたえられている。
しかし、早朝からの激闘約6時間、武田方の敗戦は決定的となった。 晴信は武田家の当主となって初めて敗戦の苦渋を味わったが、陣を引こうとはせず踏みとどまった。

【左上】伝 屋代源吾の墓  屋代源吾は屋代城主であった 屋代政国の長子であるが、この地で戦死したと伝えられる。〔現地解説板〕
行き方板垣信方の墓より西へ約200m、左側アパートの前
駐車場無し 路駐


【中上】小島権兵衛の墓  奥に見える緑地は若宮八幡宮。そこから小島権兵衛の墓までの間に、板垣、屋代の墓がある。この 周辺が激戦のあった場所ということだろうか。
行き方国道18号と県道77号の交差点の北側約50m、 18号沿いの田んぼの中
駐車場無し 路駐


【右上】雨宮行部の墓  上記3つの墓からはやや南に行った所にある。
行き方上田古戦場公園北東側、観音寺の裏手。 案内板有り。
駐車場公園駐車場 10台以上



●翌15日、敗報を受けた駒井政武は今井相模守と相談する。御北様(晴信の生母、大井夫人)に事情を話して、 晴信に使者を送り帰陣するよう説得した。
●しかし、晴信は動かず20日余りとどまり、3月5日になってようやく 上原城に引き上げた。
●板垣信方の弟、室住玄蕃允を(むろずみげんばのじょう)を 兄に代わって上原城に在城させることにし、26日甲府へ帰館した。

【左】観音寺  村上、武田両軍合わせて1万7千人の将兵の内、討死者は約4千人或いは6千人ともいわれ、その死者を観音寺に 安置している。〔現地解説板より〕
行き方上田古戦場公園の東約200m、 県道77号から石久摩神社に行く途中右側。
駐車場(未確認) 上田古戦場公園駐車場利用



●上田原における敗戦は信濃の占領地に動揺を与えた。特に諏訪郡代板垣信方の死は諏訪地方に影響した。 同年7月、信濃守護小笠原長時と諏訪湖西岸地区の武士集団である西方衆(にしかたしゅう) 等が通じ、塩尻峠の戦いに及ぶ。


【左】無名戦士の墓  バラバラにあった物をここに集めたもの。一番上の古戦場碑がある石久摩神社脇の田んぼの畦道にある。 このような墓は周囲に数カ所あるという。

信濃攻略において、信玄が最初に味わった挫折は彼自身、そして武田軍、甲斐の人々としてもショックであったろう。 『妙法寺記』の一節には「一国の歎き限りなし」とある。 だが、その続きには「されども軍止まず」と書かれており、戦が続く現状に対して、庶民の不満が伝わってくる一言が印象的だ。
この庶民の不満も空しく、信濃への領国拡大に踏み出した信玄の戦いは途切れることなく、さらに厳しい戦いの日々が続いていくことに なる。


撮影日2003年6月、2006年6月
参考文献 上田市誌編さん委員会編『室町・戦国時代の争乱』上田市誌刊行会 2001年
磯貝正義『定本 武田信玄』新人物往来社 1987年
坂本徳一「武田信玄合戦総覧」『武田信玄のすべて』磯貝正義編 新人物往来社 1987年
長野県観光連盟『信州の史跡百選』第一法規出版 1993年
参考サイト埋もれた古城」、 「武田家の史跡探訪